2000年4月30日日曜日

ルカ11章1-13節「求めなさい」

 

月報 第1号

 主イエスは弟子たちの求めに応じて、「主の祈り」を教えられた後、どのような姿勢で祈ったらよいかを示されました。それは「求めなさい」ということでした。そして、主イエスは身近な出来事を取り上げてその意味を説明されました。
 友達が旅の途中立ち寄りました。手紙や電話のない時代です。連絡なしの突然の訪問です。しかも真夜中です。パレスチナは暑いので、普通、日が陰って涼しくなってから歩いたのです。道に迷ったりすればすぐ時間がたちます。ですから真夜中友が立ち寄ることもあったのです。
 せっかく訪れた友人に、疲れてお腹が空いたまま床に入ってもらうわけにはいきません。特にパレスチナでは旅人をもてなさないことは恥ずかしいことでした。しかし、突然の来客を迎えたその人の家には肝心なパンがありませんでした。パンはその日、家族に必要な分を朝焼いたからです。
 パンがあるのではないかとその人が出かけていった近所の家は、一間だけの生活をしていました。決して裕福ではありません。日本でもごく最近まで一間だけで生活している家があっても珍しいことではありませんでした。あるいは親子で寝室を共にするのはよく見られることでした。この家でも一枚の敷物と一枚の掛け布で、子供が両親の間で川の字になって寝ていたのでしょう。
 外から戸をたたき「友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから」と言うと、中から声がしました。「面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない」。
 消した灯かりを再び灯すのは大変なことです。薄明りで戸のかんぬきをはずさなければなりません。子供たちは皆起きてしまいます。
 このような状況になるのを知っていて戸をたたき続けるのは私たち日本人にとって極めて苦手とするところです。私たち日本人は、世界で最も他人のことを気にし遠慮する民族ではないでしょうか。既に出かけるときからこんな時間に悪い、という思いがあります。隣人の家に着くと、起きていればいいが灯かりが消えているのでもう寝てしまったのでは、と小さく戸をたたきます。返事がないと、どうしよう、寝てしまっている、と困惑しここまで来て帰るわけにもいかない、と少し強く戸をたたきます。しかし中から「どなたです、こんな時間に。迷惑です」と声が聞こえたらすぐあきらめてしまうでしょう。友には悪いがこれ以上のことは出来ないと。
 主イエスは、こと神に対してはそうであってはならない、執拗に恥をもいとわないで戸をたたき続けなさい、「求めなさい」と言われるのです。主イエスはこのことに関してはこの世の常識にとらわれなくてもよいと言われるのです。

 主イエスは父と子の関係で説明します。ユダヤでは社会を構成する最小単位としての夫婦の関係、そして親子の関係を大切にします。モーセの十戒のうち、二つの戒めは家族に関するものです。家庭が崩壊すれば社会も崩壊するからです。ですから、ユダヤでは父と子の関係は非常に強いのです。「たとえ悪い親であっても子供には良いものを与える」と主イエスは言われましたが、ユダヤ人であれば誰でもその意味がよく分かるのです。
子が父親に「僕はあなたを信じない」と言うことは、その人格を認めない、何も期待していない、ということでしょう。父親にとってはさみしいことです。同じように私たちが神を信じないということは神に何も求めないということです。ここからは、人格関係は生まれようがありません。天の父は私たちに「求めなさい」と言われます。それは私たちの祈りに応えられるのを喜びとされると言うことです。私たちがそれによって主を讃美するのを知っておられるからです。主イエスは私たちの祈りに応えて天の父は最も大切な聖霊ですら私たちに与えてくださると言われました。この聖霊は私たちの心に宿り、永遠の命にまで導くのです。最も大切な聖霊すら与えられるというのなら、それ以外のものを求めて与えられないはずはありません。

川越教会は川越市に二つある日本キリスト教団の教会の一つで、川越駅から歩いて十五分以内のところにあります。そして百十年の歴史があります。この地に川越教会が建てられている意義は大きいと思います。

私たちにとって、求めるべきものは多くはありません。たった一つです。まだ救われていない人たちのために祈ることです。主イエスは「求めなさい」と言われます。共に主に祈り求めていきましょう。