2000年8月20日日曜日

ルカ18章18-30節「ある金持ちの問い」

月報 第5号

 ある役人が主イエスのところにやって来て「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」と尋ねました。聖書は私たちの生命ほど大切なものはないと教えます。ルカの十二章にはある農夫のたとえが書かれています。その人の畑が豊作でした。さあこれから食い飲みし多いに人生を楽しもう、生活の保障が得られたのだからと考えましたが、神様はその人の命をその夜取り去られてしまったのです。世界中の金銀を自分のものとしても、あるいはこの世の人がすべて自分にひざまずいて尊敬の念を示しても、自分の生命を失うならそれは何の意味があるのでしょうか。この世だけで終わる生命ですらこれほど大切であるなら、永遠に生き続ける命はどれほど大切か測り知ることは出来ません。
 この聖書に出て来る役人は真面目な青年でした。そしてこの世だけでなく永遠に生きる命の大切さを知っていました。そのため小さい頃からモーセの律法を守って生活してきました。にもかかわらずその心は満たされず、不安がありました。永遠の生命を自分のものとしているとはどうしても思えなかったのです。それで主イエスに「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」と尋ねたのです。主イエスの答は「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え」というものでした。モーセの十戒の第五番目から第九番目の戒めにあります。しかし、それだけでは十分ではありません、何かが足りないのです。主イエスはそれに対して「あなたのすることがまだ一つ残っている」、自分の持ち物を売って貧しい人々に分けてやり、「わたしに従ってきなさい」と言われました。

「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。この問いに対する最初の答は道徳的な行い、すなわちよい行いを求めるものでした。「何をしたら」という問いに答えるものです。しかし、その次の答は、貧しい人に自分の財産を施し「わたしに従ってきなさい」というものでした。よい行いだけでは永遠の生命を得ることは出来ません。「まだ一つ残っている」のです。主イエスをとるか財産をとるかの二者択一が迫られたとき主イエスを選ばなければならないのです。
 弟子たちは、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」と言いました。その弟子たちに主イエスは「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、…永遠の生命を受けるのである」と言われました。私たちは永遠の生命のために何かよいことをしようとします。そこから私たちの信仰は始まりますが、次に主イエスは永遠の生命のために自分の最も大切なものを捨てなさいと言われます。このことこそモーセの律法の第一の戒め「あなた方は私の他に何ものをも神としてはならない」に他なりません。しかし、この捨てるということは自分の意志では出来ません。残念ながら、大切な家族や財産を捨てるほどの強い信仰は誰も持っていません。それ故主イエスは「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっと、やさしい」と言われたのです。大金持の役人は主イエスの前を悲しみながら去って行きました。
 それでは弟子たちはどうして「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」と言えたのでしょうか。確かに弟子たちは仕事を捨て、親を捨て、家を捨てて主イエスに従いました。しかしそれは「私に従ってきなさい」と言われた主イエスの力だったのです。主イエスが彼らの心に働かれたからです。私たちは「あなたに従いました」と過去形でしか言えません。「私はあなたに従います」と自分の意志で主イエスに従おうとするなら、それは従うことの意味が分からないで言っているということになります。弟子たちの生涯を見ると、遂には最も大切なこの世の命すら主イエスのために捨てているのが分かります。事実、多くの弟子は殉教したのです。

「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」、この役人の問いに対する主イエスの答は、私に従う事を何にもまして大切にしなさい、優先しなさいというものでした。主イエスに従う、それは具体的には貧しい人を助けるといったそのような生活が求められます。しかし貧しい人のために自分の財産を分かち合うことすらが出来ないのが私たち人間です。
「私に従って来なさい」それは本来そのことが出来ない私たちへの招きの言葉です。決断して主イエスに従うならそれが出来るようにしてくださるのです。「人には出来ない事も、神には出来る」そのことが私たちを通して明らかになるためです。そして、自分の力で従ったのではないにもかかわらず主イエスは、その者は「永遠の生命を受けるのである」と言われます。