2001年1月21日日曜日

ルカ22章66-71節「あなたは神の子なのか」

月報 第10号

今日、多くの人は宗教、そしてキリスト教にはあまり関心がないようです。しかしキリスト教に関心を持っている人なら、主イエスに「あなたは本当に神の子なのでしょうか」と問いかけるのではないでしょうか。そしてクリスチャンと呼ばれる人々がどうして主イエスが神の子と信じられるのか不思議に思うのです。ところが今日の聖書の箇所ではユダヤ人指導者、すなわち人民の長老、祭司長たち、および律法学者たちは主イエスに「あなたは神の子なのか」と問い、それにより主イエスを罪に定め、捕らえ、十字架につけようとしたのです。

主イエスが人であり、また神であることは福音書に記されています。主イエスは神の子であることの明確なしるしとして自然を支配し、人々の病気を癒し、死んだ者すら生き返らせました。これから起ることを語られ、それは事実となりました。神の子としてのこのようなしるしは主イエスが人間であるなら信じられないことですが、神であれば不思議なことではありません。天地を創造された神には不可能なことはないからです。主イエスの生涯は清く少しの罪もありませんでした。そして主イエスは人々からの礼拝をお受けになり、御自身が神であることを認めました。このような救い主、メシアが現れることは旧約聖書で預言されています。
 イスラエルの指導者たちがこの主イエスを何故信じようとしなかったのかは明らかです。それは指導者として持っている自分たちの権威、権力、地位、名声などを主イエスのために失いたくなかったからです。祭儀や律法を守るというような形式的な神礼拝を固持し、心の思いが神中心に変わることを好まず、自己中心の生き方を改めたくなかったからです。主イエスのところに来ることによって自らの罪が明るみに出されるのを恐れました。これはユダヤ人指導者だけではありません。人間は誰でも神中心の清い生活をするより罪の生活に留まっていたいのです。多くの人たちにとって、主イエスは神であると信じられないのではなく、初めから信じたくない、いや信じないと決めているのです。ユダヤ人指導者たちの「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」との問いかけに、主イエスは「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。また、わたしがたずねても、答えないだろう」と言われました。
 「しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座する」と主イエスは続けられました。私たちは自分を指して「人の子」とは言いません。ところが主イエスは御自身を指してしばしばこのように言いました。キリスト、人の子、神の子、これらはいずれも主イエスを指します。
 人が自らを神の子であるという言い方はあったようです(ヨハネ十章三十六節)。それゆえ主イエスがご自分を一般的な意味で自分は神の子であるとしても、そのことによって死に値するとは言えなかったでしょう。
 問題は主イエスが御自身を人の子とし、人に対して神の権威を持っていることを示され、「人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」と言われたことにありました。人は死んで神の前に立ち、生前したことの裁きを受けます。しかし、人の子は神の前に立つのではなく、神の右に座して人を裁くと言われるのです。今ここで主イエスはユダヤ人指導者に裁かれていますが、御国では御自身の前に来た彼らを裁くのです。とすると本当の権威を持った裁き主は誰であるかは明白です。ですからユダヤ人指導者はその意味をすぐさま理解して「では、あなたは神の子なのか」と尋ねたのです。ここでいう神の子はもはや一般的な意味ではなく、自分を神と等しいものとしていることになります。

  人民の長老、祭司長たち、律法学者は主イエスを十字架につけました。しかし、不思議なことに彼らは主イエスを有罪とする具体的な証拠を提示することが出来ませんでした。彼らは「では、あなたは神の子なのか」と問いかけ、主イエスが「あなたがたの言うとおりである」と答えて初めて「これ以上、何の証拠がいるか。我々は直接彼の口から聞いたのだから」と主イエスが死罪に値するとの判決を下したのです。
 主イエスはこのように言えば十字架につけられるのをご存知でした。主イエスは御自身の復活がなく、十字架の上で全てが終わるのならこのようには答えられなかったことでしょう。そして十字架につけられることが天の父の御旨であることを知っていてその御心に従われたのです。
 私たちはこのように主イエスが答えられたことによって確かにキリスト、すなわち、人の子、神の子であるのを知るのです。このことは私たちの復活もまた確かなことを知ることでもあるのです。