2001年2月18日日曜日

使徒1章1-11節「あなたは力を受ける」

月報 第11号

 使徒行伝は第五福音書、あるいは聖霊行伝とも呼ばれています。著者はルカで第三福音書と共にこの書をテオピロという人に献上しています。使徒行伝は復活した主イエスが天に挙げられるところから始まり、囚人となったパウロがローマに着き二年間伝道したところで終っています。私たちはこの使徒行伝から原始教会がどのようにして生まれ、成長したかを知ることが出来ます。そして、その成長の秘訣は私たちの教会に生かすことが出来るのではないでしょうか。

 今日の聖書の箇所に入る前に二つの事実を確認したいと思います。一つは主イエスが確かに十字架上で亡くなられたということです。何人かの弟子は大勢の群衆に交じってゴルゴダの丘で主イエスが十字架上で息を引き取られるのを見、また兵士が脇腹を槍で刺すのを見ました。その中にはガリラヤから従って来た婦人たちもいました。アリマタヤのヨセフは主イエスの遺体を十字架から降ろし、布を巻くなど必要な処置をして墓に葬りました。婦人たちもその場所を確認したのです。
 もう一つの事実は、主イエスは確かに甦られたということです。ペテロを始めとする多くの弟子たちや、主イエスに従った婦人たちが復活の主イエスに会いました。主イエスの復活を聞いてもどうしても信じられないトマスに主は、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。…信じない者にならないで信じる者になりなさい」と言われました。弟子たちは生前、主イエスから御自身の苦難や復活を聞いてはいましたが、復活を信じていたり、予期していたわけではありません。反対に多くの弟子たちはトマスのように信じていなかったのです。

 主イエスは四十日にわたって弟子たちに現れ、御自身の復活が確かで、疑う余地のない事実であることを示されると共に、二つのことを教えられました。一つは、モーセの律法と預言書と詩篇の全てにわたって書かれている御自身の苦難と復活について、そして、もう一つは神の国についてでした。主イエスの苦難と復活については生前教えられたことですが、これらのことが現実になったその時、再び聖書によって確認されたのです。神の国についても弟子たちに繰り返し教えられました。そして、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待つがよい。…あなたがたは間もなく聖霊によってバプテスマを授けられるであろう」と言われました。
 主イエスのお言葉を聞いた弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を復興されるのは、この時なのですか」と問いました。イスラエルの復興の夢が再び甦ったのです。今度こそ主イエスはイスラエルをローマのくびきから開放し、ダビデ王国のように、いやそれ以上にその支配を世界の隅々にまで及ぼすに違いない、そして聖霊を受けた自分たちもまた神の国の建設に参画したいと願ったのでしょう。
 それに対し、主イエスは言われました。「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、…地の果てにまで、わたしの証人となるであろう」。
 弟子たちの関心はイスラエルの復興でした。自分の国の現状を愁い、社会の改革を願う弟子たちの思いと、主イエスの証人となることは一見、一致しないようです。しかし、主イエスの証人となるということはイスラエルを復興させることになるのです。
 イスラエルとはヘブル語で「神、支配したもう」という意味です。これまではアブラハムを自分たちの祖先とし、モーセの律法に従うものがイスラエルでした。しかし、聖霊が与えられることにより、神の霊、キリストの霊を心に宿すものが真のイスラエルとなるのです。主イエス御自身が王としてその民を支配されるからです。そこにはもはや国や民族による区別はありません。モーセの律法はこの新しいイスラエルによって全うされるのです。そして、主イエスを王とする神の国はこの世だけでなく永遠に続くのです。
 弟子たちはイスラエルの国の復興を主イエスに求めましたが、主イエスは弟子たちの伝道によって新しいイスラエルを起されました。それが教会です。

 今日、私たちもまた教勢のふるわない現状の教会を見て、弟子たちと同じように問いかけます。「主よ、私たちの教会を復興されるのは、何時ですか」と。しかし、主イエスの答えは同じでしょう。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受け…私の証人になる」。
 教会の成長は聖霊の働きです。しかし、主イエスから聖書を学んだことは弟子たちにとって聖霊を受ける準備となりました。そして、主イエスの証人になるために欠かせませんでした。
 聖書の学びの大切なことは、私たちに言えるのではないでしょうか。