2001年5月20日日曜日

ヨハネ20章19-29節「見ないで信じる者」

月報 第14号

イースター礼拝

詩篇 第16篇10~11節

  教会ではクリスマス、イースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨日)などをお祝いしますが、これらはいずれもクリスチャンになる前の常識や理性では信じられない出来事です。母マリアは聖霊によって身ごもりましたし、十字架上で亡くなられた主イエスは甦られ、天に昇られました。弟子たちはどのようにしてこれらの出来事を事実として受入れることが出来たのでしょうか。復活の出来事を通して、本日の聖書から見て行きたいと思います。

 主イエスの死と同時に弟子たちの夢も砕かれてしまいました。弟子たちは、当時のメシア観に基づいて主イエスがこの地上に神の国を建設されると信じていました。自分たちもまた、イエスを助け神の国を共に支配することを夢見ていたのです。しかし弟子たちにとって不思議だったのは、主イエスは神の子としての力を示すことなく、羊のように屠り場に引かれて行ったということでした。そしてローマ総督ピラトの裁きの前でも、毛を刈る者の前で黙している小羊のように口を開きませんでした。しかしながら、主イエスは決してこの世の権力者に対して無力であったようには見えなかったのです。
 主イエスが墓に葬られて三日目のことです。弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、部屋に閉じこもり戸を閉めていました。そこに復活された主イエスが現れました。弟子たちの驚きはどれほどだったでしょうか。彼らは主イエスが捕らえられたとき逃げてしまいました。そして、自分たちの身が危うくなったとき「わたしはあの人を知らない」と主イエスとの関わりを強く否定したのです。しかし、甦られた主はこのような弟子たちを叱責することなく「あなたがたに平和があるように」と言われ、御自身の手とわき腹をお見せになりました。その傷は紛れもなく主イエスのものでした。
 十二弟子の一人であるディドモと呼ばれるトマスは、その場にいませんでした。彼は主イエスの復活を口にする仲間の言葉を信じませんでした。見なければ信じない、いや見ても信じない。手で触り、傷痕に自分の指を差し入れてみなければ信じないと言い張ったのです。八日後、再び主イエスは弟子たちのいる部屋に入って来られました。この時、トマスは主イエスを前に「わたしの主、わたしの神よ」と言うのみでした。

 弟子たちは鍵をかけて部屋に閉じこもっていたとき、心の戸も同じようにしっかりと閉めていました。主イエスの死と共に彼らは将来の希望を失い、生きる意味を見失っていました。そして自分たちが主イエスを裏切ってしまったことを悔い、なおユダヤ人を恐れていたのです。そのような弟子たちの心を主イエスは開かれ「あなたがたに平和があるように」、すなわち「恐れるな」と言われたのです。弟子たちにとって主イエスの傷痕を見るのは、自分たちの罪を見ることでもありました。弟子たちはどれほど主イエスを慕っていたことでしょう。にもかかわらず自分たちが生きるために主イエスを見捨てたのです。しかし、主イエスはそのような弟子たちを赦されたのです。弟子たちにとっては主イエスだけが、彼らに人生の本当の意味と喜びを与えることの出来るお方でした。

 罪とは神を信じないで、自分中心に生きるということに他なりません。神の子である主イエスを殺し、自分が生きようとすることです。それは決してユダヤ人指導者だけではなく主イエスの弟子たちにもありました。そして私たちも同じなのです。それが十字架の出来事でした。しかし主イエスは私たちの罪をその傷で贖われました。私たちが受けなければならない罪の罰を神の子である主イエスが代わって受けられたのです。従って、十字架を見ることは自らの罪と、主イエスの赦しを同時に見ることです。そして私たちが主イエスと一緒にこの人生を歩むなら、主イエスの十字架の傷痕に触れ、そしてその傷に指を差し入れることになります。主イエスの苦しみを自分も共有するからです。
甦られた主イエスは御自身を弟子たちにはっきりと示され、疑う余地のないようにされました。しかし、主イエスが天に昇られ父の右の座に座られた今、私たちの霊の目でしか主イエスを、そしてその傷痕を見ることが出来ません。ですから主イエスは「聖霊を受けなさい」と言われるのです。聖霊なくして今も生きておられる主イエスに「わが主よ、わが神よ」と言うことは出来ません。主イエスがトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたことが聖霊を与えられることによって現実になるのです。そして、主イエスの復活を信じて始めて、私たちは自らの復活の希望を持つことが出来るのです。