2002年12月15日日曜日

ロマ書15章1-13節「希望の源である神」

第33号

 

   創世記28章10-15

 ローマの教会には少数派ではありましたが、肉やぶどう酒を食べたり飲んだりせず、また、特定の日を他の日よりも大切にする人たちがいました。パウロは彼らを信仰の弱い者と呼び、何でも食べ、全ての日を同じように大切にする人たちを信仰の強い者と呼んでいます。信仰の弱い人たちは良心の呵責なしに信仰の強い人たちと同じことをすることは出来ません。しかし、信仰の強い人は弱い人と同じことをすることが出来ます。パウロは信仰の強い人に対して「全ては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります」(二〇節)「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と言うのです。
 わたしたちは信仰の強い人と言いますと、自分の確信どおりに人を導く人、洞察力や指導力のある人と思いがちです。しかし、信仰においては強いということは人の重荷を担うことができるという意味にほかなりません。主イエスは神であるにもかかわらず、寡婦、孤児、病人など社会の最も弱い人々の立場に立たれました。そして十字架の死に至るまで、他の人の弱さを引き受けられました。つまり信仰の強い人とはどれだけ人を愛せるか、人を助けることが出来るか、またその人の立場で考えることが出来るかということです。軍事力で力を誇示している国と発展途上国に援助をしている国とでは、どちらが強いと言えるでしょうか。個人においても同じです。競争社会で相手に勝たなければといつも対立姿勢でのぞむ人と、弱い人を支え、重荷を担う人とではどちらが強いのかは言うまでもありません。
 しかし、信仰の強い人は人の弱さを担うがゆえに、この世的に見るなら弱い人と同じように見えます。十字架につけられた主イエスを見て、周りの人は本当にこの男は神の子なのか、人を救ったが自分を救うことが出来ない、神の子だったら十字架から降りて来い、そしたら信じてやろうと嘲笑しました(マタイ二七:三九~四三など)。彼らにとっては、十字架は弱さ以外の何ものでもなかったのです。しかし主イエスを神と信じる者にとっては、十字架は神の強さの表れなのです。

 信仰の強い人、それは希望がその人を強くしているのです。神を信じる信仰のない人は仕事に、結婚に、そして、地位や、名誉や、財産に希望を託します。しかし、希望は一つづつ消えて行きます。そして最後の希望が消えたとき人生を諦めるのです。「空しい」これが神を信じない者の共通の人生観です。そしてまだ希望を持って頑張っている人を見ると、あいつはまだ若い、枯れていないと言うのです。
 パウロは、異邦人はこの世にあって希望もなく、神もない者であった、と言います(エフェソ二:一二)。神を知ることによってのみ希望を持つことが出来るのです。神なる主イエスを知ることは、復活を知ることであり、わたしたちに約束されている永遠の命を知ることです。しかし、この希望は自分で持つことは出来ません。この希望は神から与えられるのです。

ヤコブは年老い盲目となった父を欺き、長子の祝福を奪い取りました。このことが兄エサウの恨みをかい、結局、家にいることは出来なくなりました。母の実家、ハランに一人さびしく旅立ち、途中、石を枕に寝ている時、夢に神が現れたのです。その神は祖父アブラハムの神、父イサクの神でした。神はヤコブに、土地と子孫を与え祝福の源になると言うアブラハムへの約束を再確認しました。そしてそれに加え、わたしはあなたと共にいる、わたしはあなたを守る、約束の地にあなたを連れ帰る、そしてあなたを決して見捨てないと約束されたのです。孤独なヤコブはこの神の言葉によってどれほど力づけられたか分かりません。事実二十年経って神はヨセフをハランから約束の地に導き帰るのです。しかし飢饉の時、年を取ったヤコブはこの約束の地から子供らと共にエジプトに下りました。そこで死んだと思っていた息子のヨセフに会い、そして死の床からべテルでの出来事を話して聞かせ、自分の亡骸をエジプトではなく約束の地に埋めるように求めるのです。ヨセフはその約束を守ります(四八~五〇章)。ヤコブの生涯は神に会った時から希望の人生を歩み始めたのです。約束の地を与えると言う神の約束を信じたからです。
 わたしたちも同じです。人生の旅路で一人歩むわたしたちに神が語りかけてくださったのです。そのときからヨセフと同じように神が「わたしの神」となるのです。神がおられる。どんな苦難にあっても神が共にいてくださる。それはどれほどの安らぎであるか分かりません。それだけでなく、永遠の命に預かる約束が与えられているのです。神こそわたしたちの希望の源なのです。

2002年11月17日日曜日

コリント一15章50-57節「勝利を賜わる神」

第32号

<永眠者記念礼拝>

創世記3章1-7

 神はエデンの園の中央に、命の木と善悪の知識の木を置かれました。そしてアダムとエバに、園のどの木からも食べてよい、ただし善悪の知識の木からは決して食べてはいけない、食べると必ず死ぬ、と言われました(創二:一七)。園の中央にある二本の木は絶えずアダムとエバの目に留まり、神の戒めを思い出させたのです。神を思うことは彼らにとって大きな喜びでした。それが二人に戒めを与えられた神の目的でもあったのです。
 そのアダムとエバのところに蛇がやって来ました。そして「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と神の戒めを意図的に歪曲し、エバに疑問を抱かせたのです。エバは訂正し「わたしたちは園の木の果実を食べても良いのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてはいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えましたが、神の戒めを少し拡大解釈しています。すると蛇はエバに「決して死ぬことはない」と偽り、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」とその理由を説明しました。事実「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」ので、彼らは取って食べてしまいました。すると二人の目は開けたのです。

神は御自身に敵対する悪を知っておられます。しかし、アダムとエバは神のことばに従って生きていたのでそれまでは善しか知りませんでした。この時、神のことばに背いて生きる罪の側に立ったのです。アダムとエバの心を覆っていた神の霊は去ってしまいました。それは二人にとって考えられなかった、愕然とする出来事であったに違いありません。二人はすぐにイチジクの葉を取って腰に巻き、裸を隠そうとしました。神の霊の宿っていない心を隠さなければならなかったのです。神を恐れ、隠れ、顔を避けるようになりました。人は神から離れ、自分の考えで生きようとし、自分を神とするようになりました。アダムとエバはエデンの園を追い出され、霊的にも肉体的にも死ぬ者となったのです。この罪の結果はアダムとエバの子孫全てに及んだのです。

わたしたちは夜空の星や野の花を見るとき無から有は生じない、これらは偶然ではない、確かに神はおられると思います。しかし、貧困、戦争、不義、不正といったこの世の現実を見る時、神がおられるなら何故このような状況を放っておかれるのかと思います。神との知的な対決、それはアダムとエバに起こったことでした。アダムは神に「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木からとって与えたので、食べました」と言い、女に、いや神に責任を転嫁させています。そこには「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」とエバが与えられたことを喜び、神に感謝するアダムの姿はありません(創二:二三)。同じようにエバも「蛇がだましたので、食べてしまいました」と答えています。結局、このようになったのは神が悪いというのです。
 人は神から離れて生き、死で全てを終わりにしようとします。しかし聖書は、わたしたちは一人ひとり神の裁きの座に立たなければならないと教えます。神の前に自分の人生は正しかったと主張出来る人はおりません。しかし、人であり、神であられた主イエスは神の前に立つことの出来る唯一のお方です。主イエスは人の子としてわたしたち人間の全ての苦難、弱さ、罪の誘惑を経験されました。そして神である主イエスは少しの罪も犯されなかったのです。主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と叫ばれました(ルカ二三:三四)。十字架でわたしたちの罪を贖われたのです。この主イエスを神は受け入れました。わたしたちの裸を隠すには主イエスを着ること以外にはありません。わたしたちの罪の身代わりとなられた主イエスが、わたしたちの裸を再び覆って下さるのです。その意味において、今日の世界にも二本の木が立てられています。一本は主イエスの十字架で、もう一本はわたしたち自身です。一本はいのちの木でありもう一本は善悪を知る木です。十字架のことばに従って生きるのかそれとも自分の考えに従って生きるかがわたしたちに問われているのです。

 この教会から多くの人を天に送りました。彼らは信仰をもって亡くなられたのです。永眠者記念礼拝といいますが、その方々は永遠に眠り続けるのではありません。神は主イエスによって信じる者に勝利を賜わるのです。主イエスによってわたしたちは先に召された人たちと再び会う希望を持つことが出来るのです。

2002年10月20日日曜日

ロマ書12章1-2節「なすべき礼拝」

第31号

<神学校日・伝道者献身奨励日>

 個人として神を信じない人はいても宗教をもたない民族はないと言われています。古代では多くの場合、礼拝において神に自己の所有物の一部を捧げる儀式的行為の形をとっていました。捧げものは農産物であれば「供え物」、生きものであれば「いけにえ」となります。日本でも、建築や土木工事をはじめる前に地鎮祭を行い、お酒や、米、果物、野菜などを供え、工事中の安全を神に祈願したりします。
 聖書の時代のユダヤでも祭壇に大麦、小麦といった穀物が収穫の感謝として供えられました。またいけにえとして羊、牛などの祭儀的に清い動物が捧げられました。いけにえはイスラエルの民をエジプトから救ってくれたことへの感謝、神との交わり、そして何よりも民の罪の贖い、すなわち祭壇に注がれた動物の血が自分たちの命の身代わりとして捧げられたことを意味しました(レビ一~四)。キリスト教は、神の子である主イエスがこの世に遣わされ、十字架で私たちの罪のいけにえとなられたことを教えます。しかし私たちの心は頑ななため、神の方で私たちに働きかけ心を開いてくださらない限り信じることはできません。つまり私たちが信じられるのもまた「神の憐れみによって」なのです。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」とパウロは言います(一一:三六)。

 キリスト教の礼拝は、ユダヤ教のいけにえの儀式に代わって主イエスへの感謝と救われた喜びの表明となりました。そして、自分の所有物の一部ではなく、自分自身を捧げるため神のみ前に出るのです。しかし、私たちは礼拝の対象である神をどのように信じているのでしょうか。キリスト者であっても、私たちを取り巻く厳しい現実に目を向ける時、疑いの念が起こるのではないでしょうか。戦争やテロ、差別や貧困、環境破壊などの世界のさまざまな問題を見、また自分自身が怪我や病気をしたり、他人から中傷や迫害を受けた時など、神がおられるとは思えなくなるのです。神がおられるなら何故このようなことが世界に、そして自分の身に起こるのかと思うからです。私たちは皆、自分の考えやこの世の常識、価値観に捉われて生きています。しかし、そのような私たちに主イエスはご自身の言葉に従って生きることを求められるのです。
 主イエスと弟子たちがマルタとマリアの家で食事をされたとき、マルタはその準備で大忙しでした。しかし気が付くと妹のマリアは主イエスの足元で話に聞き入っています。マルタは主イエスのところに行ってマリアに手伝うように言いました。すると主イエスはご自身の言葉を聞くことの方が大切であるとマルタに諭されたのです(ルカ一〇:三八~四一)。主イエスはマルタの常識的な判断に従ってマリアに手伝うようには言われませんでした。パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(一〇:一七)と言います。神の言葉である聖書は万物の創造者なる神と摂理を教えます。飛んでいる空の鳥すら落ちるには神の許しがあり、私たちの髪の毛すら全て数えられていると言うのです(マタイ一〇:二九、三〇)。神の言葉によってはじめて神がこの世を支配しているのであって、人間の考えや偶然、そして因果律がこの世を支配しているのではないのを知るようになるのです。この世に倣うのではなく、心を新たにし、神の言葉によって自分を変えていただくとき初めて、何が神の御心か、何が善いこと、神に喜ばれ、完全なことであるかをわきまえるようになるのです。それがなすべき、すなわち理にかなった礼拝なのです。

  神の言葉を聴いて歩むには毎日曜日の礼拝は欠かすことができません。教会の礼拝では神の言葉が語られ、御言葉の解き明しがなされています。そして語られた神の言葉への応答、すなわち讃美と献身が会衆によってなされるのです。ある人にとって教会の礼拝に出席することは犠牲を伴うことかもしれません。しかし、神を第一にしてその週を始めるなら、払った犠牲以上に神は報いてくださいます。
 公同の礼拝と共に個人でする毎日の礼拝も欠かすことはできません。聖書を読み、祈り、神の言葉を聴くのです。エジプトを出たイスラエルの民はそれぞれが毎日朝、マナを集めてその日一日の食料としなければなりませんでした(出エジプト一六)。毎日の食事と同じように私たちは毎日霊の食べ物が必要なのです。
 求道者の方にはこれからの生涯を教会の礼拝と個人の礼拝でキリストの言葉を聴きながら送ることを勧めます。それは主イエスの導きを信じ、生涯を主イエスに委ねることです。そうすることによって、自分の考えとこの世の常識に従って生きる生き方と比べてどれほどすばらしいかを証できるのです。

2002年9月15日日曜日

ロマ章10章5-21節「キリストの言葉を聞く」

第30号

 

申命記30章11-20節

  「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とパウロは言います。しかしイスラエルの民はキリストの言葉を聞くことを拒否しました。「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのもの」だったからです(一〇:一~四)。彼らは自分たちに与えられた約束により律法を守ることによって救われると信じていました。彼らは自分の義を求め、神の義に従わなかったのです(一〇:三)。自分の義とは自分の良い行いで救われようとすることであって、御子イエスを信じる者たちを義とされる神の義に従うことにはなりません。神の義に従うということは、主イエスが神であることを認めその言葉に従うことです。それは、今までの自分中心の生き方、考え方から神中心に変わることでもあります。

 信仰はキリストの言葉を聞くことによって始まるとパウロは言いましたが、「聞くこと」とはドイツ語訳では「説教」と訳すのが一つの伝統となっているそうです。そして「キリストの言葉」とは聖書の御言葉です。旧約聖書もまたキリストである主イエスを証します。パウロはこの箇所でイザヤ書二八章一六節とヨエル書三章五節から「主を信じる者は、だれも失望に終わることはない」、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」を引用していますが、この「主」はいずれも「キリスト」すなわち「主イエス」に他なりません。パウロはこのように比較的自由に旧約聖書で「主」と書かれているところを「主イエス」にあてはめて引用しています。新約聖書は主イエスを証するものです。特にその中の四つの福音書は生前主イエスが語られた言葉を集めたものです。従って礼拝での説教はキリストの言葉との対話でもあります。主イエスの言葉に従うことを聴く者に求めるからです。「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。信仰は説教を聞くことによって始まるのです。

 しかし、キリストの言葉は私たちの心になかなか受け入れられません。それはマタイによる福音書一三章にある「種を蒔く人のたとえ」のとおりです。道端に蒔かれた種は悪い人がやって来て奪い取るのです。石だらけの所にまかれた種は艱難や迫害が起こるとすぐに信仰を棄てる人で、茨の中にまかれた種はこの世の思い煩い、富の誘惑があったとき信仰を棄てる人たちです。良い土地に蒔かれた種だけが実を結び何十倍、何百倍にもなるのです。キリストの言葉はやわらかい心に宿るのであって、固い心には宿ることができません。キリストを受け入れる、それは魂の奥深いところにキリストの言葉がしっかりと宿ることで、心に律法を記することに他なりません(エレミヤ書三一:三三)。そして主イエスの言葉が心に宿る時、心は喜びで満たされ、新しい人となるのです(二コリント書五:一七)。主イエスを受け入れるのにイスラエルの民と異邦人の区別はないのです。
  それでは神は何故イスラエルの民を選ばれたのでしょうか。それはイスラエルのためではなく神の御業、すなわち栄光のためでした。世界の民族の中で最も小さく弱いイスラエルの民を神の祭司として神に栄光を帰するために選ばれたのです(出エジプト記一九:六、申命記七:七)。そしてそれはイスラエルの民の喜びにつながるはずでした。しかし、彼らは神の言葉がゆだねられたことにより高ぶり、自分たちは特別な民だとする選民意識があまりにも強くなったため、主イエスを受け入れることができなくなってしまったのです。

 昔、マラトンでアテネを中心としたギリシア軍が、ペルシャの大軍を迎え撃って勝利を治めました。そのとき勝利を知らせるためにマラトンからアテネまでを駆け抜いて、「我が軍勝てり」と叫んで息絶えた伝令者の伝説がマラソン競技の起源だといわれています。「良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」。その伝令者と同じように伝道者もまた、神の子キリストが勝利を治められた、キリストによって私たちに神との平和がもたらされたという福音を伝える者に他なりません。伝道者のよき訪れの言葉を信じる者は救われるのです。伝道者の行く先々で人々の心に平和と喜びが広がって行くのです。しかし福音を信じない者は未だに不安の中にいるのです。「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べているのです」と主イエスは言います。その手はイスラエルの民にも異邦人にも差し出されているのです。

2002年8月18日日曜日

ロマ書8章26-30節「神を愛する者たち」

第29号

  エフェソの信徒への手紙14-7

  マナの会では「信徒の友」の特集を学んでいますが、七月は<「わたし」と出会う旅>でした。その中で「ジョハリの窓」というのがありました。これは心理学者ジョセフ・ラフトとハリー・インガムが考案したもので、人の心の中には四つの窓があるという考え方です。それは、一、自分も他人も知っている私、二、他人だけが知っている私、三、自分だけが知っている私、四、自分も他人も知らない私、です。確かに私たちは自分についてある程度知っているでしょう。明るい、暗い、神経質、短気、おしゃべりといったことです。また積極的な人もいれば消極的な人もいます。このようなことについては周りの人のほうがよりはっきりと見えるものです。しかし、このようなことではなく、他人と違う自分を見つめ、その自分に正直に生きたいという場合の自分とは一体何でしょうか。
  ギリシャの哲学者、ソクラテスは「汝自身を知れ」と言いましたが、人間は自分が分からないのではないでしょうか。どこから来てどこに行くのか、今何をしなければならないのか分からないのです。自分が分からなければ当然生きる目的も分かりません。とりあえず良い大学に入ろう、自分の性格に合った仕事や結婚相手を見つけてなるべく楽しく生きよう、ということになります。しかし、どのような生き方をしても自分が何者であるか分からず、生きる目的が分からないのは苦しいことです。

 私たちは人生経験や心理学、あるいは宗教、哲学によって自分を知ることは出来ません。そうではなく神を知ることによって初めて自分を知るのです。何故なら神は人をご自身にかたどり、ご自身に似せて造られたからです(創:二六)。そして人を造られた神だけがこの私を知っているのです。神は「私はあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた」(エレ:)、そして天地創造の前に、あなたを愛していたと言われます。
  この神があらかじめ定められた人たちを召し出すのです。「神を愛する者たち」は「御計画に従って召された者たち」に他なりません。神によって召し出される前、私たちは神を認めず、反抗し、避けていました。また神を自分の都合の良いように考えていました。しかしそのような私たちを神は捉えられ、神を愛する者に変えられたのです。私たちは神にのみ可能な絶対的な確実さで救われたのです。何故ならその決断は既に永遠の昔、天地が創造される前に下されていたからです。そのことが私に起こったことでした。そして、救いは死で終わるのではなく永遠に続くのです。
  ギター教室を開いている人についての話を聞いたことがあります。この人に娘が生まれました。幼い娘と父はギターでよく遊んでいました。しかしある時父親は娘に才能があるのを発見し、教え始めました。その時から娘にとってギターは楽しいだけでなく、辛い、厳しい学びとなりました。娘の父への信頼とギターへの愛は変わりませんでした。そして娘は成長し、目指していたギターリストとしての道を歩み始めました。父と娘は互いの愛に応えたのです。神は愛する者に神を愛する霊を与えられましたが、それは神と私たちが共に目的に向かって働くために他なりません。私たちはこの与えられた霊によって神の思いが何であるかを知り、神の深みまで極めるのです。神の思いも神の御霊以外には知るものはないからです(一コリ二:一一)。

 神が私たちに与えられる人生の目的とは何でしょうか。それは私たちを御子、主イエスの姿に似たものにしようとすることです。それは御子が多くの兄弟の中で長子となるためです。そしてそれは栄光を与えるため、すなわち私たちに永遠の命を与えるためです。この目的を達成するためには私たちは多くの苦しみ、挫折、絶望を経験しなければなりません。にも関わらず私たちには喜びと希望があります。これらの試練は全て神の愛によるものであって、万事が益となるように働くことを知っているからです。それだけでなく私たちに与えられた神の霊もまた、私たちのために取り成していてくださるのです。ウエストミンスター大教理問答の第一の問は、「人間のおもな、最高の目的は、何であるか」というのですが、その答は「神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」と記されています(ウエストミンスター信仰基準、日本基督改革派教会大会出版委員会編、信教出版社、一九九四年)。つまり神を愛することと言えます。
  この宇宙を造られた神以上に大切なお方はおりません。被造物を神と比べることは出来ないからです。そして神を愛する者は、神はその独り子をお与えになったほどに私たちを愛されているのを知っています。私たちはその神を愛するのです。

2002年7月21日日曜日

ロマ書8章1-11節「霊に従って歩む者」

第28号

 

使徒言行録2章37-39節

 人は自分の好きな趣味なり仕事に熱中している時、生き生きとして見えます。そのような時あの人は生きているといった表現をします。反対に生きていても死んでいる人はいます。同じように神はご自身の前で生きている人と死んでいる人をご覧になるのです。神の前に死んでいる人とは肉に従って歩んでいる者であり、生きている人とは神の霊に従って歩んでいる者です。肉に従って歩んでいる者とは、生まれたままの状態で、回心、すなわち主イエスに出会い、自らの罪を告白し、従う決心をしていない人です。それに対して霊に従って歩んでいる者は回心し、聖霊の賜物が与えられたのを知っている人です。パウロは「神の霊」、「キリスト」、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と言葉を変えながら、その霊が「あなた方の内に宿っているなら」「霊の支配下にある」、「命にある」、「生かしてくださる」、しかし「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」と言います。

 肉に従って歩む者と回心し霊に従って歩む者との間には違いがあります。前者の目にはこの世のことしか見えません。つまりこの世のことだけを大切にして生きます。ジョン・バニヤンは「溢るる恩寵」の中で年老いた人たちがこの世にいつまでも生きていられるかのように、この世のものを追い求めて止まない様を目にする時、そして信者が、夫や妻子など、外的な損失にあった時、深い悲嘆にくれ、落胆することを知った時、不思議に思うと書いています。人は残り少ない人生を思う時、この世のこと、すなわち名誉や地位や財産、そして生にますます執着するのです。あるいは反対に人生を諦めてしまいます。この人たちにとってはこの世が全てですから、人間関係が全てとなり、絶えず人との比較で良し悪しを考えます。その結果、思い図ることは全て自分中心となってしまいます。
 それに対し、後者は主イエスを知ることによりこの世だけでなく永遠性に目が開かれた人です。どこから来てどこに行くのか、また何をしなければならないかを知っています。この世の地位、名誉、財産などよりもっと大切なものがあることに気付き、主イエスに仕えるようになります。しかし、主イエスに従うことによりはじめて自分の内なる罪を知るようになります。それは、肉の弱さの故に主イエスの求めることを実行しようとしても出来ないからです。その苦悩の中から「私はなんと惨めな人間なのでしょう。誰が私を救ってくれるのでしょうか」という嘆きが生まれます。そしてこのような状況からパウロと一緒に「主イエスによって神に感謝します」と叫ぶのです。何故なら肉の弱さのために主イエスの御言葉を実行できない私たちに代わって、主イエスご自身が自ら実践して下さっているからです。主イエスは神の前に少しの罪のない生涯を送られ、その体を十字架につけられることによって肉において罪を罪として処断して下さったからです。

 多くの宗教は、魂は死んでも生き続けますが体は滅びると教えます。しかし、キリスト教は人間を魂と体に分けることの出来ないものとし、魂と肉体の復活を教えます。主イエスは私たちと同じ罪深い肉の姿でこの世に来られ私たちを救われました。しかし、私たちが救われるためには、霊によって体の仕業を絶たなければなりません(十三節)。そのためには主イエスのように肉の思いを十字架につける生き方、すなわち主イエスに倣って生きることが求められるのです。主イエスは、私は律法を廃止するために来たのではなく成就するために来た、また、あなた方の義はファリサイ派の人々より立派でなければならないと言われました。ペトロは、救われるためにどうしたらよいのですかという人々の問いに答えて、悔い改めなさいと言いました。それは今までの罪を悔いるだけではなく、これからは罪を犯さないように生き方を改めなさいということです。心から悔い改めるなら聖霊は必要な助けを与えて下さり、聖化への道を歩ませて下さるのです。だれでもキリストにあるなら新しく造られた者です。救いにあずかるために私たちはどんなに困難であっても狭い門から入らなければなりません。滅びに至る道は広くそこから入る者が多いからです。 
 残念ながらキリスト者であっても霊ではなく肉に従って歩んでいる人が多くいます。その結果は回心前のパウロのように神に仕えていると信じながら神に敵対してしまうのです。聖書は読む人に聖霊を受けなさいと何度も繰り返して言います。ギリシャ語では肉体的生命をプシュケーと呼び、永遠の命をゾーエーと呼びますが、それはゾーエーを得るために他なりません。パウロが主イエスに会って変えられたように、神の霊を受けることによってのみ救われるのです。

2002年6月16日日曜日

ロマ書5章12-21節「恵の賜物」

第27号

 私たちは罪についてどのように考えたらよいのでしょうか。ある人たちは、罪は人間の不完全さの表れであって教育や環境などの改善により解決できると言います。しかし私たちを取り囲む社会情勢を見る時、このような考え方はあまりにも楽観的で短絡的であるように思えます。また、ある人たちは、罪は生存競争に打ち勝つための自己防衛的なもので、他人を傷つけてまでも生きようとする極めて本能的なものだと言います。そのため科学がいかに進歩しても人間の力では解決不可能であると悲観的に考えるのです。
 死についてはどうでしょうか。ある人たちは、死は生に意味を与えるものとして積極的に受け入れて生きることが出来ると言います。他方、ある人たちは「太陽と死とはじっとして見てはいられない」(ラ・ロシュフコー)と、死から目をそむけて生きようとするのです。
 カール・バルトという神学者は、死を「この世界の最高の法則」と呼んでいます。この世でどれほど名誉、財産、地位を得ても、また自分の欲望をどれほど満足させたとしても結局は死で終わりとなるからです。そして、もし救いなるものがあるならそれは死からの救いでなければならない、もし神がおられるならこの死に打ち勝つ神でなければならない、と言います。

聖書には、罪と死は一人の人、アダムの行為によってこの世に入り込んだと書かれています。神は最初の人、アダムを創られ、エデンの園に置かれ、一つの戒めを与えられました。その戒めは園の中央に生えている「善悪の知識の木から食べてはならない、食べると必ず死んでしまう」と言うものでした。しかし、アダムはサタンにそそのかされて食べてしまいました。その行為、つまり神の言葉に逆らうことが罪で、自らの知識に頼って神なしに生きようとすることです。それは神への反逆です。そのことが死をまねくのです。このアダムの行為によってサタンがこの世に入り込み、その子孫の全てに罪と死をもたらしました。
 しかし、神は罪を犯して死ぬものとなったアダムとその子孫に、女(エバ)の子孫から救い主が生まれることを約束されました。そしてこの約束は、ご自身の独り子、主イエスを救い主としてこの世にお遣わしになることにより成就したのです。
 アダムは神の戒めをよく知っていたにもかかわらず、サタンの誘惑にあったときそれを守ることが出来ませんでした。それに対し、主イエスは天の父の御心に忠実で、御言葉から少しも離れることはありませんでした。そのことは主イエスのご生涯に一貫して見られますが、特に伝道の公生涯に入られるときと、十字架につけられるときに現れています。主イエスはサタンによって荒野に導かれ誘惑を受けられましたが、その誘惑はいずれも神の御言葉を疑わせ、主イエスご自身の思いを実行するようにそそのかすものでした。また、主イエスはゲッセマネの園でご自身の思いではなく天の父の御心がなされるように祈られました。十字架を前にして主イエスはどれほど苦しまれたことでしょう。にもかかわらず、人類の罪を背負って死ぬことが神の御心であることを思い、死に至るまで天の父に忠実でした。
 しかし、主イエスは罪に死なれたままではありませんでした。三日目に墓より甦られたからです。この主イエスの罪のないご生涯と復活が私たちに命を与えることになりました。ご自身の尊い命という代価を払って私たちの罪を贖ってくださったのです。そして、主イエスの十字架により罪を赦された私たちもまた、復活に預かることが出来るのです。

 一人の人、アダムによってこの世界に入って来たものが罪と死であるならば、神の独り子、主イエスによってこの世に入って来たもの、それは罪からの赦しと永遠の命に他なりません。
 アダムによって全ての人に有罪の判決が下されていたのが、主イエスの正しい行為によって義とされ永遠の命を得るようになったのです。
 恵みの賜物とは主イエスご自身であって、その主イエスが私たちに与えられていること、そしてそのことを知らされていることに他なりません。私たちは、バルトの言う「この世界の最高の法則」である死を、自分の力で積極的に受け入れたり、目をそむけて生きていくことは出来ません。主イエスによって与えられた恵みの賜物のみが私たちを罪と死から救うのです。
 恵みの賜物とはそれを受けるに値しない者に与えられた神の行為です。その導きを実感するとき、それまでの人生を感謝し、それからの生涯もまた主イエスによって守られることを確信することができるのです。それは死で終わるのではなく、復活に預かるまで続くものです。そして復活で始まる永遠の命は今、既に地上で恵みの賜物として与えられているのです。

2002年5月19日日曜日

ロマ書4章13-25節「世界を受け継がせる約束」

第26号

 

   創世記22章1-19

 私たちは命を失うなら地上の全てのものを得ても何もなりません(マタイ一六章二六節)。それでは救いを得るためにはどうしたら良いのか、何をしたら良いのか、と私たちは問います。それに対しパウロはユダヤ人の先祖であるアブラハムの例を持ち出し、「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた」と言います。世界を受け継ぐ救いは神の働きであって、そのことを信じることだけが私たちに求められていると言うのです。

 アブラハムはヘブル人でした(創一四章一三節)。ヘブルとは、通常「渡ってきた者」と理解されています。ユーフラテス川、紅海、あるいはヨルダン川を渡って来た者という意味だったのでしょう。別の説ではヘブルの語源はイブリで、ロバ男、ロバ使い、行商人、隊商者であった、そこから汚い、誇りっぽいという意味もあったとあります。そしてアブラハムは「滅びゆく一アラム人」でもありました(申二六章五節)。従ってアブラハムは決して立場の強い有力者ではなく、雑多な無国籍者の一人に過ぎなかったのです。そのようなアブラハムに神の言葉が臨んだのです。そして、その神の言葉に従ってアブラハムはハランを出立しカナンの地に入って行ったのです。神の言葉には力がありました。その言葉を聞いた時、アブラハムは信じ、行動に移したのです。その時、アブラハムは七十五歳、サラは六十五歳でした。しかし子孫を与えるという神の約束の実現はアブラハムが百歳になるまで待たなければなりませんでした。パウロは、老いたアブラハムとサラには新しい生命の誕生を望むすべはなかったにもかかわらず、自らの考えや判断に立たず、「存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じたと言います。そしてその信仰がアブラハムの義と認められたのです
  パウロはアブラハムの経験はこれだけではなかったと言います。神はアブラハムに少年となったイサクを焼き尽くす捧げものとして捧げるように求めたからです。神からの声を聞くとアブラハムはイサクを連れモリアに向かいました。アブラハムは、神は「死者に命を与える」ことが出来るお方であると信じていたから、とパウロは言います。事実、イサクを屠ろうとしたまさにその瞬間、神はその大切な独り子をアブラハムに戻しました。神はアブラハムに、イサクの代わりとなる一匹の雄羊を用意されていたのです。アブラハムにとっては死んだイサクが神によって再び命を与えられたことに他なりません。
  彼の生涯におけるこの二つの出来事は、死んだ体から新しい生命であるイサクが生まれたと言うこと、そしてイサクが生きるために身代わりとして雄羊が屠られたと言うことです。アブラハムは「世界を受け継がせる約束」を果たしてくださるためには、どのような時であっても主が必ず助けてくださることを確信したことでしょう。アブラハムはイサクの代わりに雄羊を屠ったその場所を「主は備えてくださる」(The Lord Will Provide :NAS)と名付けています。
  アブラハムの子孫であるユダヤ人たちは主が約束されたように星の数のように増えました。しかし大切なのは、アブラハムと同じ信仰に立つキリスト者もまた神は星の数のように増やしてくださったと言うことです。主の「世界を受け継がせる約束」とアブラハムの「主は備えてくださる」という信仰は、小羊である主イエス・キリストがこの地上に来られることによって成就しました。私たちは主イエスが私たちの命の身代わりで、このお方こそ主が私たちのために備えてくださったのを知るからです。
  旧約聖書はこの主イエスを証します。そして主イエスご自身も生前、死からの甦りを弟子たちに話されました。弟子たちは復活の主に会うことによって、生前主イエスが語られた言葉を信じたのです。私たちの復活もまた理性や常識ではなかなか受け入れられない出来事ですが、主の約束の言葉と復活の主に会うことによって信じられるのです。その私たちを神はアブラハムと同じように義とされるのです。

 パウロは「神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになった」その「契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはない」と言います(ガラテヤ三章一七、一八節)。事実、「世界を受け継がせる約束」を律法の行いによって得ることが出来るなら、神を讃美する代わりに自分の良い行いを誇る結果となってしまいます。そうではなく神の約束の言葉を信じる者だけが、心から神に栄光と感謝を捧げることが出来るのです。

2002年4月21日日曜日

ルカ24章36-49節「わたしの手や足を見なさい」

第25号

<イースター礼拝>

創世記3章15

  
 主イエスはこの世で私たちと同じように喜びと共にさまざまな苦難を経験されました。しかし、主イエスの生涯の苦難の極みは十字架にありました。十字架刑は最も残酷な刑で、ローマ帝国の支配に反逆するテロリストや反乱、暴動を起こした政治犯への見せしめのための刑でもありました。十字架刑では手と足に釘が打たれましたが、釘は腕のくるぶしの少し上の二本の骨の間に、そして足は曲げられて二つのかかとを重ね、その骨に一本打ち込まれました。体重を支えた腕の釘は肉を裂き、くるぶしのところで止まったのです。

その十字架から三日の後、主イエスは部屋に集まっていた弟子たちの中に「あなたがたに平和があるように」という言葉と共に立たれました。恐れおののき、亡霊を見ていると思っている弟子たちに「わたしの手や足を見なさい」、そして続けて「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言われ、ご自身が霊ではないことをお示しになりました。それでも弟子たちが不思議がっていると主イエスは彼らの前で焼いた魚を食べられたのです。
  甦られた主イエスは生前とはどこか違っていました。もし同じであれば弟子たちはすぐ分かったはずです。主イエスと分かるために弟子たちの心の目が開かれなければならなかったのです。別の身体、すなわち天的な身体、永遠に生きることのできる身体で甦られたのではないでしょうか。
  この主イエスの復活の出来事こそキリスト教にとって最も大切な出来事です。この出来事こそ私たちに主イエスは人であり神であられたこと、そして私たちも復活することを教えるからです。それでは何故、復活により主イエスは神であるのが分かるのでしょうか。聖書は罪の結果が死だと教えます。従って、少しの罪もなければ死はないのです。私たちは主イエスの生涯に少しの罪も見つけることは出来ませんが、それは主イエスが神であったからで、復活の事実は、罪が主イエスを死に閉じ込めておくことが出来なかったことを示しています。そして主イエスは人でもありました。マリアの子で、私たちと同じ罪の誘惑に会われたたのです。主イエスが神ということだけであるならその十字架の出来事は私たち人間とは係わり合いのない別世界で起こったことになります。また主イエスが人であるだけなら私たちの罪を贖うことは出来ません。人は人の罪を贖うことが出来ないからです。罪のない主イエスは私たち人類全ての罪を贖ったのです。主イエスの罪のない生涯を天の父は受け入れたのです。復活は旧約聖書の成就であり、ご自身が生前弟子たちに告げられたことの成就です。それを信じる私たちもまた信仰により主イエスと同じように清くされ、復活の望みを持つことが赦されるのです。主イエスの復活は私たちの初穂なのです。

 主イエスは「わたしの手や足を見なさい」と言われました。手は働きを意味します。主イエスの手はご自身の家族や弱い人、貧しい人、病人のために働かれた手でした。主イエスの足、それは福音のためガリラヤ、そしてエルサレムを回られた足でした。人々の求めに応じてどこにでも行かれました。主イエスに「来てください」と言って断られた人を知りません。しかしその最後はその手と足に釘を打たれたのです。それはご自身の痛み、苦しみだけではなく、全人類の苦しみ、罪を負われたのです。創世記三章十五節には女の子孫はサタンのかしらを砕き、サタンはその踵を砕くとあります。サタンに砕かれたその踵の痛みはどれ程のものだったのでしょうか。しかしそれによってサタンはかしらを砕かれ、人を罪に閉じ込めておく力を失ったのです。主イエスは私たちに手と足を見るだけでなく、触れてみなさいと言われます。主イエスの苦しみ、喜び、私たちへの愛に触れてみなさいと言われるのです。触れることによってより深く主イエスの苦しみ、喜び、愛を共有することが出来るのです。触れることによって主イエスはもうあなた方を弟子とは呼ばない、兄弟と呼ぼうと言われるのです。そして主イエスと食事をするのです。親しい交わりに入るのです。主イエスは私たちの心からの奉仕を受け入れられのです。
  そしてそうすることによって初めて私たちは主イエスが言われた「まさしくわたしなのだ」という言葉の意味を理解するのです。「まさしくわたしなのだ」は「それは私である」ということであって、ご自身が神であるということです(参照、出エジプト記三章一四節、及びヨハネ八章二四、二八節)。主イエスをよく見、触れ、食事をするなら、主イエスがどのようなお方かが分かります。主イエスが神であることが分かるのです。

2002年3月17日日曜日

ルカ15章16-32節「福音を恥としない」

第24号

ロマ書1章16-17

ロマ書の主題
  使徒言行録を終え、ロマ書に入りました。今日はその二回目ですが、パウロはこの聖書の箇所でロマ書の主題を記しています。それは 

一.      福音とは神の力である

二.福音には神の義が啓示されている

三.それは初めから終わりまで信仰を通して実現される

ということです。

一.福音とは神の力である
  福音とは、よき知らせです。この世の生涯が終わって神の前に立ったとき、神と私たちとの間に和解、平和が既になされているということです。それは御子に関するもので(ロマ一章三、四節)、人であり神であられる御子が救いに必要なこと全てを私たちに代わってしてくださったということです。主イエスは罪のない清い御生涯を歩まれ、十字架により私たちの罪を贖われ、復活なさり、天に上り、父の御許から約束の聖霊を注がれ、私たちの救いを確かなものとしてくださっているのです。救いは主イエスがなされた業であり、私たちはそのためにすることは何もありません。私たちもまた復活の希望を与えられていますが、私たちの復活もまた神の業に他なりません。

二.福音には神の義が啓示されている
  神は聖なるお方ですが、このことは神は義と愛を併せ持っておられるということです。義とは罪を正しく罰せられるということです。人は全て罪を犯しているので神に裁かれる存在でしかありません。しかし、神の愛はそのような人をも救われようとするのです。神はその愛のゆえに人と契約を結ばれました(虹の契約(創八章九~十七節)、アブラハム契約(創十二章一~三節)など)。神御自身の立てられた契約を守り、罪の結果である死から人を救うために遣わされたのが御独り子、主イエスでした。神は御子を義とされ、その結果、御子を信じる者をも同じく義とされました。福音には神の愛と義が啓示されていますが、そのことは神からの働きかけがあって初めて理解し、認めることが出来るのです。

三.それは初めから終わりまで信仰を通して実現される
 信仰とは見えないもの、すなわち主イエスを信じ、主イエスに従い、復活と神の御計画を信じることです。私たち自身の復活を信じることもまた信仰によります。事実とは誰もが理解し証明出来ることですが、信じることができるためには、啓示が必要とされます。

放蕩息子のたとえ話
 ルカに出て来るこのたとえ話はこのようなパウロの主張を分かりやすく教えるのに適しています。ここで登場する父親は神であり、二人の息子は私たち人間です。弟は父なる神の束縛を逃れて自由に生きようとします。ここに神なしに、自分中心に生きようとするアダムとエバ以来の原罪を見ることが出来ます。弟は父の財産を分けてもらい、それを全て自分のために使おうと家を出ます。しかも父親の目の届かない遠くの町に行くのです。しかし神から離れて生きることによって持っていたものを全て失い、ついには命さえ失う危険にさらされます。その時、初めて弟は正気に戻り、父のもとに帰る決心をします。これが回心であり、悔改めです。信仰には決断と行動が求められます。家にたどり着くと、思いがけず父は息子が帰って来るのを待っています。まだ遠く離れていたのに息子を認め、憐れに思い走り寄ります。そして自分のものを再び息子に与えるのです。
 父親は放蕩息子を罰することなく無条件に赦しました。私たちの常識では、弟は息子と呼ばれる資格のないことをしたのですから、父親としてはその点をはっきりさせ、必要な罰を与えなければいけないはずです。従ってこのような父親に反発する兄の気持ちは良く分かります。
 このたとえ話を解く鍵は、主イエスが語られた話として理解しなければならないということです。主イエスはご自身の十字架でこの放蕩息子を赦されるのです。この放蕩息子の罪は主イエス御自身が十字架で負われたからこそ成り立つ話です。ですから父のところに戻って来さえすれば放蕩息子に限らずどのような罪人であっても赦されるのです。
 この話は主イエスに罪を赦されることによって初めて理解出来ます。残念ながら罪を赦された体験を持っていない人は兄の立場しか理解できないでしょう。兄は父がしたことが分からず、反発して家を出るかもしれません。しかし、赦された弟は二度と父の家を出ることはないでしょう。

福音を恥としない
 救われた者、あるいは放蕩息子にとって父の赦しは福音です。自分には何の義もないのに、罪が赦され永遠の命を受けることが出来るからです。放蕩息子と自分を重ね合わせることの出来る人は福音を恥とするはずはありません。どのような状況にあっても大胆に御言葉を宣べ伝えるのです。

2002年2月10日日曜日

使徒28章17-31節「希望していること」

第23号
希望していること
「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです」とパウロは言いました。イスラエルが希望していることとは一体何でしょうか。その答えは使徒言行録の一章にあります。復活された主イエスは使徒たちに、神の国について話され、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と言われました。それに対し、使徒たちは「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねております。口語訳では「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのはこの時なのですか」と訳されています。国の復興、それこそイスラエルが希望していることでした。
6年前、イスラエルを訪れました。エジプトから入った私たちの目にはずいぶん豊かな国として映りました。灌漑などにより多くの荒地が緑に変わっていたからです。戦後、世界の放浪の民であったイスラエルの人々は二千年の時を経て自分たちの出て来た土地に戻りました。建国、これもまた国の復興といえるのではないでしょうか。国の再建はイスラエルの人々の希望していることでした。
 旧約聖書は神が多くの民族の中からイスラエルを選び、御自身が支配される国を造ろうとされた歴史です。神はアブラハムと子孫に土地と多くの子孫と祝福を約束されました(創世記十二章)。それは御自身の国を造られることの約束です。神はこの約束に従って奴隷であったイスラエルをエジプトから導き出し、荒野で十戒を与え、約束の地、カナンに導き入れました。神はこの乳と蜜の流れる地でイスラエルを聖なる民、宝の民とされ、全ての民の中で最も祝福しようとされました。しかし、イスラエルの民は神に従おうとはしませんでした。反逆する民に神は預言者を次々に遣わし、神に立ち返ることを求めました。イスラエルの歴史は神への反逆の歴史でもありました。そして、預言者の最後に御子、主イエス・キリストを遣わされたのです。
主イエスの時代も、イスラエルの民は国の復興を希望していました。ダビデの子孫であるメシアが現れ、ローマ帝国の支配から国を開放し、自立した国となることを望んでいたのです。

神の国にふさわしい民  
 そのようなユダヤ人たちにとって、主イエスをメシアと信じることは難しいことでした。主イエスがメシアであるなら神の国はどこに出現しているのでしょうか。神の国の住民にふさわしいのはアブラハムの子孫で律法を守っているイスラエルの民のはずでした。イスラエル以外の異邦人は神の約束も律法も知らなかったからです。
 しかし、歴史を通してイスラエルの民が見落としていたのは、神が聖であるように、神の国の民もまた聖でなければならないということでした。聖とは義と愛を併せ持つことで、具体的には十戒を守って生きることです。十戒は神と人とを愛するということに要約されますが、それは聖なる民の生活の基準で、神の国の憲法でもあります。十戒を守って生活するなら神と人の前に自分を低くし謙虚になるはずです。しかし、イスラエルは謙遜になるどころか神に選ばれた民として高慢になってしまいました。その罪こそ預言者が繰り返し民に警告したことでもありました。
十戒を守るということにおいてイスラエルの歴史は、人間の力で神の国の住民にふさわしくなることは出来ないことを教えます。それ故、神は人を聖くする別の方法を採られたのです。それが独り子である主イエスを遣わされることでした。御子は私たちに代わって神の前を聖く歩まれ、信じるものを信仰によって神の国の民にふさわしくされたのです。

神の国の復興  
 イスラエルの人たちは神のアブラハムへの約束を文字通りに理解したため神の国とカナンの地を切り離すことが出来ませんでした。しかし、パウロの言う「希望」はもはや土地には結びついていません。主イエスが王として支配される神の国は土地を持たない民だけの国だからです。そして民もアブラハムの子孫ではなくアブラハムの信仰を受け継ぐ霊的な意味での子孫で、そこにはユダヤ人、異邦人といった民族、人種間の区別はありません。この民が十戒によって神の国を造ることが出来なかった民に代わって神の国を復興するのです。これこそパウロが希望していることでした。
 国の利権、あるいは信仰の約束が他民族の住む土地にあるなら紛争は避けられないでしょう。それが旧約聖書に書かれていることであり、現在のイスラエルとパレスチナの人たちの争いになっています。そのような世界にあって、土地を求めないキリスト者は平和のために貢献できるのではないでしょうか。私たちキリスト者の希望は天にあって、主イエスの再臨の時、朽ちることのない永遠の御国を受け継ぐことを知っているからです。

2002年1月20日日曜日

使徒24章1-27節「死者の復活のこと」

第22号

〈新年礼拝〉

新しい世界


エレアーデという人の書いた永遠回帰の神話」という本を読みますと、古代社会では、宇宙は永遠で物質や生命はその中で現れ消えていく、すなわち万物は成長と衰退を繰り返し、それはあたかも月が新月から満月に満ち欠けを繰り返すのと同じであると書かれています。そして一年をそれに当てはめると、正月は新しい世界の始まりとなります。日本ではごく最近まで、新しい年に古い年の借金の取りたてはありませんでした。落語では長屋の大家さんは何としても除夜の鐘がなる前に、たまっている家賃を取り立てなければなりませんでした。反対に店子の八つぁん、熊さんにとっては大晦日さえ過ぎれば借金は帳消しになったのです。新しい世界に古い世界の出来事を持ち込むなら、全てが台無しになってしまいます。そういえば、子供の頃、元旦の朝起きると、太陽も空気も家も全てが新しくなっているように感じたものでした。このような考え方は、今日でも陰暦を使う世界で共通して見られるようです。また、宇宙は永遠から永遠に続くと考えている世界では、この無限の宇宙と一体になるとき心の安らぎを覚えると言われています。子供のころ野原に寝そべって夜空の星を見ながら宇宙に漂った、何ともいえない懐かしい記憶が思い出されます。

神の支配
 聖書の宇宙観、世界観はそれとは違います。宇宙とその中にある全てのものは神によって創造されたと教えるからです。初めがあり終わりがあって歴史が生まれます。もし宇宙が永遠に続くなら全ての出来事は繰り返しに過ぎなくなります。神によって創られたものには創られた目的、すなわち神の意志があります。神の意志があるところには神の力が働いているはずです。そして実際にこの世で働いている神の力を二つの面に見ることが出来ます。一つはニュートンやアインシュタインの相対性理論に代表される、いわゆる数学的、物理的法則でそれら自然の法則によって神は宇宙を現在の状態に保っておられます。宇宙をその状態に保つ物質間の力は神の力によるもので、その力がなくなれば宇宙は一瞬にして崩壊してしまいます。もう一つは、聖書が証するもので、人間は神と結びつくことによって初めて生きるものとされるということです。人は神の力によって本当の意味で生かされるのです。
 神は最初の人間、アダムとエバを創られエデンの園に置かれ、園の中央にある木の実を食べてはならないという戒めを与えられました。その戒めによって神との間に結びつきが生まれたのです。また神はモーセを通してイスラエルの民に十戒を与えられ、その戒めを守ることによって生きるようにされました。さらに神は御自身の独り子、主イエスをこの世に送られ、その言葉を信じ、守る事によって全ての人を生きるようにされました。

死者の復活
 今日の聖書の箇所でパウロは、ユダヤ人議会でファリサイ派やサドカイ派の議員たちに対し、パウロらキリスト者は彼らと同じ先祖の神を礼拝していると言いました。そしてファリサイ派の人々と同じように旧約聖書全体をことごとく信じ、復活の希望を持っていると言いました。サドカイ派の人たちはモーセの五書しか信じず、復活を信じていなかったため、ユダヤ教の正統派とは言えませんでした。ユダヤ人たちは主イエスを信じる人たちを「ナザレ人の分派」と呼び、ユダヤ教の正統派とは認めていませんでした。「ナザレから何のよいものが出ようか」と言ったのです。しかし、パウロはキリスト者こそアブラハムの信仰を受継ぐユダヤ教の正統派であると言いました。主イエスこそ旧約聖書で予言するメシアだからです。
 神がエデンの園を創られたとき、そこには死はありませんでした。死がこの世に入り込んだのはアダムとエバが神の言葉、すなわち戒めに従わなかったためです。その罪の結果はアダムとエバの子孫である人類全体に及んだのです。しかし神である主イエスは、天の父の御言葉に従い少しの罪のない生涯を送られました。そして人でもあった主イエスは私たちと同じ罪の誘惑に会われました。その主イエスが私たちの罪の贖いのために十字架につかれたのです。しかし、罪の結果である死は主イエスを墓に閉じ込めて置くことは出来ませんでした。三日目に甦られれ、私たち信じるものの初穂となられたのです。
 パウロは、正しい者も正しくない者もやがて復活すると言います。復活し主イエスの前に立つのです。そして、主イエスを信じなかった者は裁かれるのです。その裁きとは主イエスの戒め、すなわちその言葉を信じてこの世を生きたかどうかが問われるということに尽きます。しかし、主イエスを信じている者には御国が約束どおり用意されるのです。これこそ本当の新しい世界なのです。