2002年2月10日日曜日

使徒28章17-31節「希望していること」

第23号
希望していること
「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです」とパウロは言いました。イスラエルが希望していることとは一体何でしょうか。その答えは使徒言行録の一章にあります。復活された主イエスは使徒たちに、神の国について話され、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と言われました。それに対し、使徒たちは「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねております。口語訳では「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのはこの時なのですか」と訳されています。国の復興、それこそイスラエルが希望していることでした。
6年前、イスラエルを訪れました。エジプトから入った私たちの目にはずいぶん豊かな国として映りました。灌漑などにより多くの荒地が緑に変わっていたからです。戦後、世界の放浪の民であったイスラエルの人々は二千年の時を経て自分たちの出て来た土地に戻りました。建国、これもまた国の復興といえるのではないでしょうか。国の再建はイスラエルの人々の希望していることでした。
 旧約聖書は神が多くの民族の中からイスラエルを選び、御自身が支配される国を造ろうとされた歴史です。神はアブラハムと子孫に土地と多くの子孫と祝福を約束されました(創世記十二章)。それは御自身の国を造られることの約束です。神はこの約束に従って奴隷であったイスラエルをエジプトから導き出し、荒野で十戒を与え、約束の地、カナンに導き入れました。神はこの乳と蜜の流れる地でイスラエルを聖なる民、宝の民とされ、全ての民の中で最も祝福しようとされました。しかし、イスラエルの民は神に従おうとはしませんでした。反逆する民に神は預言者を次々に遣わし、神に立ち返ることを求めました。イスラエルの歴史は神への反逆の歴史でもありました。そして、預言者の最後に御子、主イエス・キリストを遣わされたのです。
主イエスの時代も、イスラエルの民は国の復興を希望していました。ダビデの子孫であるメシアが現れ、ローマ帝国の支配から国を開放し、自立した国となることを望んでいたのです。

神の国にふさわしい民  
 そのようなユダヤ人たちにとって、主イエスをメシアと信じることは難しいことでした。主イエスがメシアであるなら神の国はどこに出現しているのでしょうか。神の国の住民にふさわしいのはアブラハムの子孫で律法を守っているイスラエルの民のはずでした。イスラエル以外の異邦人は神の約束も律法も知らなかったからです。
 しかし、歴史を通してイスラエルの民が見落としていたのは、神が聖であるように、神の国の民もまた聖でなければならないということでした。聖とは義と愛を併せ持つことで、具体的には十戒を守って生きることです。十戒は神と人とを愛するということに要約されますが、それは聖なる民の生活の基準で、神の国の憲法でもあります。十戒を守って生活するなら神と人の前に自分を低くし謙虚になるはずです。しかし、イスラエルは謙遜になるどころか神に選ばれた民として高慢になってしまいました。その罪こそ預言者が繰り返し民に警告したことでもありました。
十戒を守るということにおいてイスラエルの歴史は、人間の力で神の国の住民にふさわしくなることは出来ないことを教えます。それ故、神は人を聖くする別の方法を採られたのです。それが独り子である主イエスを遣わされることでした。御子は私たちに代わって神の前を聖く歩まれ、信じるものを信仰によって神の国の民にふさわしくされたのです。

神の国の復興  
 イスラエルの人たちは神のアブラハムへの約束を文字通りに理解したため神の国とカナンの地を切り離すことが出来ませんでした。しかし、パウロの言う「希望」はもはや土地には結びついていません。主イエスが王として支配される神の国は土地を持たない民だけの国だからです。そして民もアブラハムの子孫ではなくアブラハムの信仰を受け継ぐ霊的な意味での子孫で、そこにはユダヤ人、異邦人といった民族、人種間の区別はありません。この民が十戒によって神の国を造ることが出来なかった民に代わって神の国を復興するのです。これこそパウロが希望していることでした。
 国の利権、あるいは信仰の約束が他民族の住む土地にあるなら紛争は避けられないでしょう。それが旧約聖書に書かれていることであり、現在のイスラエルとパレスチナの人たちの争いになっています。そのような世界にあって、土地を求めないキリスト者は平和のために貢献できるのではないでしょうか。私たちキリスト者の希望は天にあって、主イエスの再臨の時、朽ちることのない永遠の御国を受け継ぐことを知っているからです。