2002年6月16日日曜日

ロマ書5章12-21節「恵の賜物」

第27号

 私たちは罪についてどのように考えたらよいのでしょうか。ある人たちは、罪は人間の不完全さの表れであって教育や環境などの改善により解決できると言います。しかし私たちを取り囲む社会情勢を見る時、このような考え方はあまりにも楽観的で短絡的であるように思えます。また、ある人たちは、罪は生存競争に打ち勝つための自己防衛的なもので、他人を傷つけてまでも生きようとする極めて本能的なものだと言います。そのため科学がいかに進歩しても人間の力では解決不可能であると悲観的に考えるのです。
 死についてはどうでしょうか。ある人たちは、死は生に意味を与えるものとして積極的に受け入れて生きることが出来ると言います。他方、ある人たちは「太陽と死とはじっとして見てはいられない」(ラ・ロシュフコー)と、死から目をそむけて生きようとするのです。
 カール・バルトという神学者は、死を「この世界の最高の法則」と呼んでいます。この世でどれほど名誉、財産、地位を得ても、また自分の欲望をどれほど満足させたとしても結局は死で終わりとなるからです。そして、もし救いなるものがあるならそれは死からの救いでなければならない、もし神がおられるならこの死に打ち勝つ神でなければならない、と言います。

聖書には、罪と死は一人の人、アダムの行為によってこの世に入り込んだと書かれています。神は最初の人、アダムを創られ、エデンの園に置かれ、一つの戒めを与えられました。その戒めは園の中央に生えている「善悪の知識の木から食べてはならない、食べると必ず死んでしまう」と言うものでした。しかし、アダムはサタンにそそのかされて食べてしまいました。その行為、つまり神の言葉に逆らうことが罪で、自らの知識に頼って神なしに生きようとすることです。それは神への反逆です。そのことが死をまねくのです。このアダムの行為によってサタンがこの世に入り込み、その子孫の全てに罪と死をもたらしました。
 しかし、神は罪を犯して死ぬものとなったアダムとその子孫に、女(エバ)の子孫から救い主が生まれることを約束されました。そしてこの約束は、ご自身の独り子、主イエスを救い主としてこの世にお遣わしになることにより成就したのです。
 アダムは神の戒めをよく知っていたにもかかわらず、サタンの誘惑にあったときそれを守ることが出来ませんでした。それに対し、主イエスは天の父の御心に忠実で、御言葉から少しも離れることはありませんでした。そのことは主イエスのご生涯に一貫して見られますが、特に伝道の公生涯に入られるときと、十字架につけられるときに現れています。主イエスはサタンによって荒野に導かれ誘惑を受けられましたが、その誘惑はいずれも神の御言葉を疑わせ、主イエスご自身の思いを実行するようにそそのかすものでした。また、主イエスはゲッセマネの園でご自身の思いではなく天の父の御心がなされるように祈られました。十字架を前にして主イエスはどれほど苦しまれたことでしょう。にもかかわらず、人類の罪を背負って死ぬことが神の御心であることを思い、死に至るまで天の父に忠実でした。
 しかし、主イエスは罪に死なれたままではありませんでした。三日目に墓より甦られたからです。この主イエスの罪のないご生涯と復活が私たちに命を与えることになりました。ご自身の尊い命という代価を払って私たちの罪を贖ってくださったのです。そして、主イエスの十字架により罪を赦された私たちもまた、復活に預かることが出来るのです。

 一人の人、アダムによってこの世界に入って来たものが罪と死であるならば、神の独り子、主イエスによってこの世に入って来たもの、それは罪からの赦しと永遠の命に他なりません。
 アダムによって全ての人に有罪の判決が下されていたのが、主イエスの正しい行為によって義とされ永遠の命を得るようになったのです。
 恵みの賜物とは主イエスご自身であって、その主イエスが私たちに与えられていること、そしてそのことを知らされていることに他なりません。私たちは、バルトの言う「この世界の最高の法則」である死を、自分の力で積極的に受け入れたり、目をそむけて生きていくことは出来ません。主イエスによって与えられた恵みの賜物のみが私たちを罪と死から救うのです。
 恵みの賜物とはそれを受けるに値しない者に与えられた神の行為です。その導きを実感するとき、それまでの人生を感謝し、それからの生涯もまた主イエスによって守られることを確信することができるのです。それは死で終わるのではなく、復活に預かるまで続くものです。そして復活で始まる永遠の命は今、既に地上で恵みの賜物として与えられているのです。