2002年12月15日日曜日

ロマ書15章1-13節「希望の源である神」

第33号

 

   創世記28章10-15

 ローマの教会には少数派ではありましたが、肉やぶどう酒を食べたり飲んだりせず、また、特定の日を他の日よりも大切にする人たちがいました。パウロは彼らを信仰の弱い者と呼び、何でも食べ、全ての日を同じように大切にする人たちを信仰の強い者と呼んでいます。信仰の弱い人たちは良心の呵責なしに信仰の強い人たちと同じことをすることは出来ません。しかし、信仰の強い人は弱い人と同じことをすることが出来ます。パウロは信仰の強い人に対して「全ては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります」(二〇節)「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と言うのです。
 わたしたちは信仰の強い人と言いますと、自分の確信どおりに人を導く人、洞察力や指導力のある人と思いがちです。しかし、信仰においては強いということは人の重荷を担うことができるという意味にほかなりません。主イエスは神であるにもかかわらず、寡婦、孤児、病人など社会の最も弱い人々の立場に立たれました。そして十字架の死に至るまで、他の人の弱さを引き受けられました。つまり信仰の強い人とはどれだけ人を愛せるか、人を助けることが出来るか、またその人の立場で考えることが出来るかということです。軍事力で力を誇示している国と発展途上国に援助をしている国とでは、どちらが強いと言えるでしょうか。個人においても同じです。競争社会で相手に勝たなければといつも対立姿勢でのぞむ人と、弱い人を支え、重荷を担う人とではどちらが強いのかは言うまでもありません。
 しかし、信仰の強い人は人の弱さを担うがゆえに、この世的に見るなら弱い人と同じように見えます。十字架につけられた主イエスを見て、周りの人は本当にこの男は神の子なのか、人を救ったが自分を救うことが出来ない、神の子だったら十字架から降りて来い、そしたら信じてやろうと嘲笑しました(マタイ二七:三九~四三など)。彼らにとっては、十字架は弱さ以外の何ものでもなかったのです。しかし主イエスを神と信じる者にとっては、十字架は神の強さの表れなのです。

 信仰の強い人、それは希望がその人を強くしているのです。神を信じる信仰のない人は仕事に、結婚に、そして、地位や、名誉や、財産に希望を託します。しかし、希望は一つづつ消えて行きます。そして最後の希望が消えたとき人生を諦めるのです。「空しい」これが神を信じない者の共通の人生観です。そしてまだ希望を持って頑張っている人を見ると、あいつはまだ若い、枯れていないと言うのです。
 パウロは、異邦人はこの世にあって希望もなく、神もない者であった、と言います(エフェソ二:一二)。神を知ることによってのみ希望を持つことが出来るのです。神なる主イエスを知ることは、復活を知ることであり、わたしたちに約束されている永遠の命を知ることです。しかし、この希望は自分で持つことは出来ません。この希望は神から与えられるのです。

ヤコブは年老い盲目となった父を欺き、長子の祝福を奪い取りました。このことが兄エサウの恨みをかい、結局、家にいることは出来なくなりました。母の実家、ハランに一人さびしく旅立ち、途中、石を枕に寝ている時、夢に神が現れたのです。その神は祖父アブラハムの神、父イサクの神でした。神はヤコブに、土地と子孫を与え祝福の源になると言うアブラハムへの約束を再確認しました。そしてそれに加え、わたしはあなたと共にいる、わたしはあなたを守る、約束の地にあなたを連れ帰る、そしてあなたを決して見捨てないと約束されたのです。孤独なヤコブはこの神の言葉によってどれほど力づけられたか分かりません。事実二十年経って神はヨセフをハランから約束の地に導き帰るのです。しかし飢饉の時、年を取ったヤコブはこの約束の地から子供らと共にエジプトに下りました。そこで死んだと思っていた息子のヨセフに会い、そして死の床からべテルでの出来事を話して聞かせ、自分の亡骸をエジプトではなく約束の地に埋めるように求めるのです。ヨセフはその約束を守ります(四八~五〇章)。ヤコブの生涯は神に会った時から希望の人生を歩み始めたのです。約束の地を与えると言う神の約束を信じたからです。
 わたしたちも同じです。人生の旅路で一人歩むわたしたちに神が語りかけてくださったのです。そのときからヨセフと同じように神が「わたしの神」となるのです。神がおられる。どんな苦難にあっても神が共にいてくださる。それはどれほどの安らぎであるか分かりません。それだけでなく、永遠の命に預かる約束が与えられているのです。神こそわたしたちの希望の源なのです。