2003年4月20日日曜日

ヨハネ4章43-54「二回目のしるし」

第37号

主イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行われ、水をぶどう酒に変えられました。そして同じカナで二回目のしるしを行われました。
 カファルナウムに住んでいた王の役人の息子が病気になりました。医者に見せましたが一向によくなりません。それどころかますます悪くなり、死にそうになりました。そのような時、主イエスはガリラヤのカナに来られたのです。役人は主イエスのことを聞いていました。そして息子の病を癒してもらうにはこのお方にすがる以外にはないと思ったのです。カファルナウムからカナまではおよそ二十キロの道のりです。この役人は、死にかかっている息子を置いて出かけて行きました。
 しかし、主イエスははるばるやって来た役人の願いを受け入れられず、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのです。同じことは最初のしるしのときにもありました。マリアが主イエスのところに来て「ぶどう酒がなくなりました」、何とかしてくださいと頼んだとき「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と断られました(二:三、四)。しかし事はこの役人の方がはるかに深刻です。役人は主イエスに、息子が死なないうちに来てくれるよう執拗に頼みました。

 不思議なことに主イエスは人となってこの世におられた間、ご自身のところに来る人の願いを全て聞き入れられています。そのことは天の父の御元に戻られた後との大きな違いといえるでしょう。主イエスは役人に、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われたのです。
 役人は主イエスの言葉を信じ、家路に着きました。信仰とは主イエスの言葉を信じることに他なりません。御言葉を信じることにより、主イエスと人格的な関係に入るのです。その途中、役人は僕たちと会い、息子が突然、しかも完全に癒されたことを知らされました。そして主イエスの言葉と癒された時刻が一致しているのを知ったとき、神が主イエスを通して働いているのを知りました。主イエスが神の子としての権威と力を持っているのを認めたのです。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われたこのお方は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」とも言われました。役人は死んでも生きるという約束もまた真実であると信じたのです(三:一六)。

 この世から、戦争、事故、怪我、病気、そして死がなくなることはないでしょう。主イエスを信じれば、このような苦難を受けないで生きることができるということでもありません。パウロがダマスコ途上で回心したとき、主イエスは「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」と言われました(使九:一六)。
 主イエスはこの世の試練をとおして、わたしたちの目をもっと大切なものに開かせようとしているのです。そのことに目が開かれることによって、はじめてわたしたちはこの世の生活をもっと大切にして生きることができるようになるのです。そのことこそ主イエスがこの世に来られた目的です。しかし主イエスは「あなたたちは、(永遠の)命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と嘆かれました。そして「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのです(五:四〇)。

 わたしに教会の長老をしていた二歳違いの弟がいました。弟は小学生だった二人の娘を残して四七才で死にました。主イエスはこの娘たちの、そして家族の願いを聞き入れられなかったのです。わたしたちはこの役人と同じようなしるしや不思議な業を見ることはできないかもしれません。しかし、見ないで永遠の命を信じることのできる人は幸いなのです(二〇:二九)。
 主イエスを信じ、永遠の命を信じて亡くなった弟は、残された子供たちや家族にとって大きな力となっているのです。母は熱心な仏教徒でした。敗戦後、中国から引き揚げたときどれほどこの祖母譲りの信仰が助けになったか分からない、とよく聞かされて育ちました。しかし、今年の一月から、秋田の住まいの近くの、日本基督教団の教会に妹と出席するようになりました。祈っていたとはいえ、わたしの目には奇蹟です。八十三歳の母は、天国で息子に会うためには同じ信仰でなければならないと考えるようになったのでしょう。
 役人が主イエスに会い、その言葉を信じたことにより、家族もまたこぞって主イエスを信じるようになりました。それは息子の病を癒す力のあるお方は、永遠の命を与えることのできるお方であるのを信じるようになったことに他なりません。