2003年5月18日日曜日

ヨハネ5章31-47節「命を得るために」

第38号

 
 聖書は旧約、新約、あるいはマタイによる福音書といった分冊を含めると、世界中で毎年五億冊が頒布されていると言われます。また、ウイクリフ聖書翻訳協会によると、聖書はおおよそ三二〇〇ある世界の言語の二二〇〇語に翻訳されており、今後二五年間で全ての言語に翻訳される計画だということです。
 しかし、歴史を見ますと聖書への迫害も多くありました。ローマ帝国の時代、皇帝の命令で聖書は幾度となく集められ焼却されました。紀元四世紀にキリスト教は公認されましたが、教会はラテン語訳しか認めませんでした。一六世紀の宗教改革によって、聖書翻訳ははじめて自由になり、また印刷機の発明により比較的容易に人々の手に入るようになりました。しかし一八世紀の啓蒙主義の台頭と共に理性万能の時代が到来しました。いろいろな問題や未知の現象も科学や技術が進歩すれば全て解決できるというきわめて楽観的な考え方が広がりました。このような考え方は神学にも影響を与えました。聖書の中の理性では認められない奇蹟は否定され、神の存在すら疑われるようになりました。フランスの啓蒙思想家、ヴォルテールは、聖書は百年もすれば博物館に行くと言ったといいます。そして共産主義国家の誕生に伴いこれらの国では宗教は非科学的、迷信だと排除され、禁止されました。啓蒙主義や共産主義の考えは今日でも多くの人に影響を与えています。

ユダヤ人は聖書(旧約)を自分たちの救い主、メシアの来臨を約束する神の言葉と信じて来ました。主イエスが生まれたとき彼らはメシアがどこで生まれるのか、そしてだれの子孫から生まれるかを知っていました。にもかかわらずユダヤ人にとって聖書は理解できない書物でもありました。主イエスは律法学者やファリサイ派と言ったユダヤの宗教的指導者に対して「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」と言いわれましたが、彼らはモーセの律法を守ることによって神の裁きから救われると考えていました。同じことは今日のわたしたちにもいえるではないでしょうか。多くの人は神の戒めに従って正しい人生を歩むことによって救われようとするからです。聖書を道徳や倫理の書と同じように考えて読むならば、結局理解できず、本棚の片隅でほこりをかぶることになってしまいます。

 夜空の星を見るときわたしたちは無限の宇宙を思い、永遠を思います。また無から有が生まれることはないし、偶然から意味あるものが生まれることもないと思うのです。それは自分自身の存在や、咲いている野の花を見るときにもいえます。また、わたしたち人間には良心があって、悪いことをすれば心が痛みます。このように被造物は神がおられることを教えています。しかしわたしたちは理性によって神がどのようなお方であるかを知ることはできません。聖書だけが神を啓示するのです。しかし、人間は神を直接見ることはできません。わたしたちは主イエスをとおして神を知るのです。主イエスは「聖書はわたしについて証しをする」と言います。被造物は言(ことば)によって創られたこと、また神は言やさまざまな形、たとえば雲、火、また人となってイスラエルの民や指導者に現れ、導かれたことが書かれています。父なる神を顕現する子なる神、主イエスが永遠のはじめからおられたのです。また、旧約聖書には救い主が生まれる約束が書かれていますが、それはエバの子孫から、アブラハムの子孫から、そしてダビデの子孫から生まれると預言しています。その約束は時が満ちて現実となりました。そのお方こそ人となられた神の子、主イエスであって、それが新約聖書に書かれていることです。聖書は創造者なる神ご自身が創られたこの世界を支配しておられることをわたしたちに教えています。
 主イエスはご自身のなされる奇蹟を信じなさいと言われます。そのことこそ主イエスを神と信じることだからです。主イエスが神であるなら奇蹟を行われること、すなわち、わたしたち被造物をご自身の意志に従わせることは少しも不思議ではありません。
 主イエスを神と信じない者は主イエスの奇蹟を信じることはできません。彼らは人間の理性を神ご自身の業よりも優先させることによって、神を認めず、その結果、主イエスよりも人からの誉れを求めるのです。そのような者に対して主イエスは「あなたたちは、命を得るためにわたしのところに来ようとしない」と嘆かれるのです。
 いのちは神にあるのです。いのちを得るためには神のところに来る以外にはありません。主イエスのところに来ることは主イエスを神と認めて永遠の命を求めることに他なりません。永遠の命は主イエスによって与えられるからです。そして主イエスはご自身のところに来る人に喜んでいのちを与えられるのです。