月報39号
〈ペンテコステ礼拝〉
人間は二つに分けられませんが身体と心からなると考えられてきました。身体は見ることが出来ますが心は目で見ることはできません。しかし、心には大きな心、小さな心、また温かい心、冷たい心、弾んだ心があります。貧しい心、清い心、豊かな心、濁った心、そして燃えている心、冷えている心もあります。気が進まないことをするときには心は重くなり、楽しいときは心も軽くなります。また、目で心を知ることが出来ます。暗い目、明るい目、野心に燃えたぎらぎらした目、落ち着かないきょろきょろした目、死んだ目、生きた目、すさんだ目などです。このように心はさまざまな形をとって外に表れますが、その本質には三つの構成要素があります。それは知性、感情、意志です。知性は記憶や理解、分析、判断などで、感情は喜び、悲しみ、好意、憎しみ、恐れなどです。意志は選択する力であり、持続させる力です。たとえば知性は好きなタイプの人を認識し、感情に働きかけて嬉しくなり、感情は意志に働きかけ友達になろうとします。反対に嫌いな人ですと気分が悪くなり、顔を向けようとしません。知性、感情、意志は人をその人たらしめているものでもあります。
今日心を病む人が多くいます。その多くは自分は何者なのかが分からないことから起こると言われます。人の心には何かから切り離された感覚があり、そのため不安に駆られます。神はわたしたちの心に「(あなたは)どこにいるのか」と問いかけています(創三:九)。それはその人のこの世での存在の意味を問いかけているのです。その問いに正しく答えない限りわたしたちの心の不安は解消されません。
わたしたちの心には、その奥底に最も大切なところがあると言います。それは神の霊を受け入れる場所です。アウグスティヌスは「魂の最高の部分」の中に、霊的形相や理念を受け入れる「器、あるいは柩」と呼ばれている力が存在していると言います。また、ドイツの思想家エックハルトは「魂の根底には、ただ神しか入ることができない」と言います。このような場所は人間だけにあるのですが、生まれたままのわたしたちにはそこに神の霊がいません。そのため心の空白感があります。その場所に聖霊を受けてはじめてわたしたちの心は満たされるのです。聖霊は神であり、キリスト御自身でもあります(ヨハネ四:二四、一コリント一五:四五)。神の霊が心に宿ってはじめて知性は主イエスを知るのです。神を知った知性は感情に働きかけ喜びに満たされます。そして感情は意志に働きかけ主イエスをもっと知ろうとするようになります。このように知性、感情、意志は互いに循環しながら向上し、わたしたちはキリストに似たものに変えられていくのです。