2003年6月15日日曜日

使徒2章36-42節「主が招いてくださる」

月報39号

〈ペンテコステ礼拝〉

 人間は二つに分けられませんが身体と心からなると考えられてきました。身体は見ることが出来ますが心は目で見ることはできません。しかし、心には大きな心、小さな心、また温かい心、冷たい心、弾んだ心があります。貧しい心、清い心、豊かな心、濁った心、そして燃えている心、冷えている心もあります。気が進まないことをするときには心は重くなり、楽しいときは心も軽くなります。また、目で心を知ることが出来ます。暗い目、明るい目、野心に燃えたぎらぎらした目、落ち着かないきょろきょろした目、死んだ目、生きた目、すさんだ目などです。
 このように心はさまざまな形をとって外に表れますが、その本質には三つの構成要素があります。それは知性、感情、意志です。知性は記憶や理解、分析、判断などで、感情は喜び、悲しみ、好意、憎しみ、恐れなどです。意志は選択する力であり、持続させる力です。たとえば知性は好きなタイプの人を認識し、感情に働きかけて嬉しくなり、感情は意志に働きかけ友達になろうとします。反対に嫌いな人ですと気分が悪くなり、顔を向けようとしません。知性、感情、意志は人をその人たらしめているものでもあります。
 今日心を病む人が多くいます。その多くは自分は何者なのかが分からないことから起こると言われます。人の心には何かから切り離された感覚があり、そのため不安に駆られます。神はわたしたちの心に「(あなたは)どこにいるのか」と問いかけています(創三:九)。それはその人のこの世での存在の意味を問いかけているのです。その問いに正しく答えない限りわたしたちの心の不安は解消されません。
 わたしたちの心には、その奥底に最も大切なところがあると言います。それは神の霊を受け入れる場所です。アウグスティヌスは「魂の最高の部分」の中に、霊的形相や理念を受け入れる「器、あるいは柩」と呼ばれている力が存在していると言います。また、ドイツの思想家エックハルトは「魂の根底には、ただ神しか入ることができない」と言います。このような場所は人間だけにあるのですが、生まれたままのわたしたちにはそこに神の霊がいません。そのため心の空白感があります。その場所に聖霊を受けてはじめてわたしたちの心は満たされるのです。聖霊は神であり、キリスト御自身でもあります(ヨハネ四:二四、一コリント一五:四五)。神の霊が心に宿ってはじめて知性は主イエスを知るのです。神を知った知性は感情に働きかけ喜びに満たされます。そして感情は意志に働きかけ主イエスをもっと知ろうとするようになります。このように知性、感情、意志は互いに循環しながら向上し、わたしたちはキリストに似たものに変えられていくのです。

 わたしたちの心に聖霊を与えてくださることは、旧約聖書で約束されていることです(エレミヤ書三一:三三、エゼキエル一一:一九など)。そしてそれは主イエスの約束でもありました(ヨハネ一四:一五~三一)。主イエスは十字架につけられ、三日目に甦り、天に昇り、父から聖霊を受け、弟子たちに与えられました。それがペンテコステの出来事でした。息子がニューヨークに行くと言って出て行き、何日か経ってそこから手紙が来たなら着いたことの証拠となるでしょう。聖霊が弟子たちに降ったことは主イエスが父の御許に行かれたということです。主イエスは弟子たちに、あなたがたを孤児とはしない、また戻ってくると約束されました。そして、あなた方は聖霊を受けるなら力を受け、エルサレム、ユダヤとサマリア、そして地の果てまでわたしの証し人となるであろうと言われました(使徒一:八)。主イエスが十字架にかけられてからの弟子たちはユダヤ人を恐れていましたが、この日を境に立ち上がり、大胆に福音を語り始めました。ペテロの説教でその日三千人が信徒に加わりました。教会はエルサレム、アンティオケア、エフェソ、ガラテヤ、コリント、そしてローマにと瞬く間に、野火のように広がって行きました。多くの殉教者がでましたが、それによってますます教会が世界に広がり、成長していきました。ついにローマ帝国はキリスト教国となり、西暦はキリストの誕生から始まり、日曜日は週の初めとなったのは今日わたしたちの見るところです。

 この日、ペトロの説教を聞いた人々は救われるため「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。それに対し弟子たちは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と答えました。
 この約束は主の招きに応じて御許に来る者なら、だれにでも与えられているのです。そして聖霊がわたしたちの心に宿る時、わたしたちは新しい人となるのです。