第40号
出エジプト記3章11-15節
モーセは四〇才になるまでエジプトの王、ファラオの娘の子として育てられました。しかし、エジプト人を殺したため、ミィデアンの地に逃げなければなりませんでした。そこで四〇年間、義理の父エトロの羊を飼っていました。ある日、羊を追ってホレブの山に来た時、芝の中で燃える炎となって現れた神に出会ったのです。神は、エジプトで奴隷となっているわたしの民を救い出しなさいと言われました(出エジ三:七~一〇)。モーセは「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と問うと、神は「わたしは必ずあなたと共にいる」、そして「あなたがイスラエルをエジプトから導き出したとき、あなたは…神に仕える」と言われました。モーセはさらに訊ね、「その名は一体何か」、すなわち、あなたは、いったい、どなたですか、と尋ねました。古代のイスラエルでは、名前は人格に一致し、その人の本質を表していると考えられていたのです。神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました(三:一一~一四)。主イエスも「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とユダヤ人たちに言われました。それに対しユダヤ人たちは「あなたは、いったい、どなたですか」と問いました。主イエスは「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて『わたしはある』ということ…が分かるだろう」と答えられました(ヨハネ八:二四~二八)。「上げたとき」とは十字架の死から復活し、天に上げられたときであって、あなた方はそのとき初めて主イエスがモーセに現れた神であることが分かると言われたのです。
わたしたちもまたモーセと同じように神に出会うとき「わたしは何者でしょう」と問いかけます。そしてまた「あなたは、いったい、どなたですか」と問うのです(使徒九:五)。その問いに対する神の答えこそ「わたしはある」であって、いつでもどこでも「わたしは必ずあなたと共にいる」ということなのです。
「わたしはある」、それはこの神にわたしたちが仕える、礼拝するということです。そして「わたしは必ずあなたと共にいる」、それは、この世で罪の奴隷となっている神の民を救い出しなさいというわたしたちへの命令でもあります(出エジ六:一三)。神の国のためにこの世に遣わされることこそ、わたしたちのこの世での存在理由です。わたしたちと共に働かれるために、主イエスは十字架につけられ、復活し、天に上げられ、聖霊となってわたしたちの内に宿られたのです。わたしたちは神が共にいてくださることにより、この世で何をしたらよいのか、つまり、自らの存在の意味を見い出すことが出来るのです。