2003年7月20日日曜日

ヨハネ8章21-30節「わたしはある」

第40号

  

出エジプト記3章11-15節

 モーセは四〇才になるまでエジプトの王、ファラオの娘の子として育てられました。しかし、エジプト人を殺したため、ミィデアンの地に逃げなければなりませんでした。そこで四〇年間、義理の父エトロの羊を飼っていました。ある日、羊を追ってホレブの山に来た時、芝の中で燃える炎となって現れた神に出会ったのです。神は、エジプトで奴隷となっているわたしの民を救い出しなさいと言われました(出エジ三:七~一〇)。モーセは「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と問うと、神は「わたしは必ずあなたと共にいる」、そして「あなたがイスラエルをエジプトから導き出したとき、あなたは…神に仕える」と言われました。モーセはさらに訊ね、「その名は一体何か」、すなわち、あなたは、いったい、どなたですか、と尋ねました。古代のイスラエルでは、名前は人格に一致し、その人の本質を表していると考えられていたのです。神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました(三:一一~一四)。
 主イエスも「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とユダヤ人たちに言われました。それに対しユダヤ人たちは「あなたは、いったい、どなたですか」と問いました。主イエスは「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて『わたしはある』ということ…が分かるだろう」と答えられました(ヨハネ八:二四~二八)。「上げたとき」とは十字架の死から復活し、天に上げられたときであって、あなた方はそのとき初めて主イエスがモーセに現れた神であることが分かると言われたのです。

  「わたしはある」、それは初めも終わりもない唯一の無限の存在であり、無から有を生み出す創造者だということです。そしてそのお方は、遠くからわたしたちを見ていて、死んでからわたしたちのしてきた良いこと悪いことを裁かれるお方というのではなく「必ずあなたと共にいる」お方、すなわちわたしたちを通して働かれるお方でもあるのです。神は被造物を超越した唯一無限の存在であり、万物の創造者ですが、同時に、わたしたちと共に歩まれるのです。事実、神はモーセを通してさまざまなしるしや奇跡を行い、ファラオやエジプトの民に御自身を信じるように求められました。しかし、彼らは心を頑なにして神を信じようとせず、神の大いなる審判が下され裁かれました。ファラオの家から奴隷の家に至るまで、またすべての家畜に至るまで初子が殺されたのです。しかし、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民は小羊の血による過ぎ越しによって贖われました。イスラエルの民は開放され、自由の民となったのです。エジプトの民はそれによってイスラエルの神が主であることを知りました。
 主イエスもまた「神の小羊」として御自身が十字架につけられることによって信じる者の贖いとなられました。それは罪の奴隷からの開放であり、罪の結果である死からの救いであって、永遠の命を得ることであります。しかし、信じない者にとっては自らの罪の裁きを受けなければならないのです。復活は永遠の命が確かなことであるのを教えます。そして、主イエスは天において父なる神の右に座しておられるのです。モーセは神に忠実な人としてエジプトで奴隷になっていたアブラハムの子たちを救いましたが、主イエスは神としてこの世で罪の奴隷となっている御自身の民を救われたのです(ヘブライ三:二、五、六)。

わたしたちもまたモーセと同じように神に出会うとき「わたしは何者でしょう」と問いかけます。そしてまた「あなたは、いったい、どなたですか」と問うのです(使徒九:五)。その問いに対する神の答えこそ「わたしはある」であって、いつでもどこでも「わたしは必ずあなたと共にいる」ということなのです。
 「わたしはある」、それはこの神にわたしたちが仕える、礼拝するということです。そして「わたしは必ずあなたと共にいる」、それは、この世で罪の奴隷となっている神の民を救い出しなさいというわたしたちへの命令でもあります(出エジ六:一三)。神の国のためにこの世に遣わされることこそ、わたしたちのこの世での存在理由です。わたしたちと共に働かれるために、主イエスは十字架につけられ、復活し、天に上げられ、聖霊となってわたしたちの内に宿られたのです。わたしたちは神が共にいてくださることにより、この世で何をしたらよいのか、つまり、自らの存在の意味を見い出すことが出来るのです。