2003年10月19日日曜日

ヨハネ11章17-27節「わたしは命である」

第43号

 
主イエスがベタニアに到着したのはマルタとマリアの弟のラザロの死の四日後のことでした。主イエスの到着を聞きマルタはすぐに迎えに出ました。そして、主イエスに会うやいなや言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。マルタとマリアは主イエスをどれほど待っていたことでしょう。彼らは主イエスが病人を癒され、また会堂司ヤイロの娘や、ナインの町で未亡人の息子を死から甦らされたのを知っていたからです。ラザロが死ぬ前に、あるいは死の直後に来て下さっていれば、との思いがあったに違いありません。しかし、ラザロは墓に入れられて四日も経っていました。死体は既に腐敗が始まっていたのです。「しかし」とマルタは言いました。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。すると主イエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われました。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。最後の日の復活なら今、ここで主イエスに確認していただく必要はありませんでした。それによってマルタの悲しみが和らぐものではなかったからです。それに対し主イエスは「わたしは復活であり、命である」と言われました。「復活」、「命」、それは「世の光」、「世の塩」、「羊飼い」、「道」、「真理」、等など主イエスがこの福音書の中でたびたび御自身のことを語っている言葉です。それは「わたしはある」ということをも意味し、初めもなく終わりもない、永遠の存在、すなわち神であることを宣言するものです(出エジ三:一四、一五、ヨハネ八:二四、二八)。御自身を神とし、復活であり、命であると宣言された主イエスは、マルタに「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問われたのです。

  主イエスは御自身を神と信じる者は死んでも生きると言われました。新しい天と新しい地である神の国を教え、その国にわたしたちを導くためにこの世に遣わされ、また霊となられたのです(Ⅱコリ三:一七、ガラ四:六)。その国に入る妨げとなっているのがわたしたちの罪です(ロマ六:二三)。主イエスは十字架で御自身の命でもってわたしたちの罪を贖われました。そして復活され、罪赦されたわたしたちもまた復活にあずかる望みを持つことが出来るようにされました。罪のない主イエスは墓の中に死んだままいつまでも閉じ込められてはいませんでした。同じように主イエスによって罪が赦されたわたしたちも死に閉じ込められることはないのです。
 それはまた、生きていて主イエスを信じる者は誰も、決して死ぬことはないということでもあります。永遠の命の約束は同時にその命にふさわしく造りかえられることでもあるからです。神である主イエスがわたしたちの心に入って来られることにより古い自分に死に、新しく生まれ変わるのです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と書いてあるとおりです(Ⅱコリ五:一七)。神が光あれと言われて宇宙が創造されたように、主イエスは真っ暗なわたしたちの心に光あれと言われてわたしたちを新しく創造されるのです(Ⅱコリ四:六)。
 

 ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフは人殺しで、ソーニャは売春婦でした。その罪の過去により生きることの出来ない二人でした。その苦しみのなかで二人は最後にラザロの復活を読み始めたのです。主よ、助けてください、過去の罪が赦され、全く違う自分に造りかえてください。それがラスコーリニコフとソーニャの叫びであり祈りでした。その二人の物語をドストエフスキーは次のことばで終えています。「しかし、そこにはすでに新しい物語、一人の人間が次第に新しくなっていく物語、次第に更生してゆく物語、一つの世界から他の世界へと次第に移っていく物語、これまで全然知られなかった新しい現実を知る物語がはじまろうとしているのである。それは新しい物語の主題となりうるものである。―しかし、この物語をこれで終わる」
 マルタとマリアの祈りもまた、弟のラザロをどうか甦らせてください、今、復活させてくださいというものでした。その二人の祈りに主イエスは答えてくださいました。
 主イエスのなされたラザロの復活の奇跡は、主イエスが神であることを教えます。神には不可能なことはありません。「わたしは命である」と言われたお方が、わたしたちに永遠の命を与えてくださるのです。そしてそれは死後の復活と共に今、新しい命に造りかえられるということでもあるのです。