2003年12月21日日曜日

マタイ1書18-25節「その名はインマヌエル」

第45号

 <クリスマス礼拝>

 クリスマスの出来事、それは神であられるキリストが人の救いのために人間の姿をとってこの世に来られたということです。それは創造者が被造物であるこの世界に入って来られた、あるいは、永遠と有限が接点を持った、などと表現できるかもしれません。
 マリアは聖霊によって身ごもりました。天使ガブリエルはマリアの婚約者であるヨセフにもその事実を夢で告げました。主の言葉には力があります。主の天使を通して直接聞かされた神のことばを疑ったり無視することはできません。ヨセフは天使の言葉どおりマリアを妻にし、生まれた子をイエスと名付けました。イエスは「神は救われる」という意味です。主の天使の「この子は自分の民を罪から救う」の言葉をヨセフは信じ受け入れたのです。
 このクリスマスの出来事は、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と預言したイザヤの言葉の成就でもあります(イザヤ七:一四)。イザヤはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世、すなわち紀元前八世紀後半、主イエス誕生の七百年前頃活躍した預言者で、インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。

  ローマ皇帝アウグストゥスの人口調査の勅令によりダビデの血筋であったヨセフはマリアと共にベツレヘムの町に上り、そこで主イエスが産まれました。その後、彼らは郷里のガリラヤのナザレに戻りました(ルカ二:一、三九)。
 ナザレを訪れたことがありますが、主イエスの時代とさほど変わらないと思われるのどかな村でした。村は丘の上に建てられ、ガイドの説明では主イエスが育った家とみなされるところは洞穴の一つで、数家族が一緒に生活していたといいます。石や木の家に住むことは、その頃は金持ちにしか出来なかった、と言っていました。きっとそのような生活が普通で、隣同士助けあって生きていたのでしょう。大工であったヨセフは主イエスがその仕事を継ぐことが出来る頃に亡くなったと思われます。主イエスの公生涯は三十歳頃始まり三年後の十字架で終わり、復活とペンテコステの出来事がそれに続きます。
 仮にマリアが自分の人生を回顧し、一言で表現するとするなら「神は我々と共におられる」ということだと思います。神がヨセフとマリアに、ご自身の独り子を託されたことは彼らにとってどれほどの栄誉なことだったでしょう。しかも十字架につけられた我が子によって罪が赦され、永遠の命の希望を持つことの出来る者にされたのです。
 マリアやヨセフと同じ時代を生きたガリラヤやユダヤの人たちにとって神の御子の誕生はどのような意味を持ったのでしょう。大多数の人は自分たちの生活に追われ、主の御降誕には無関心だったのかもし知れません。そしてまた、多くの人にとって主イエスが神の子とは信じられなかったことでしょう。しかし、主イエスに出会って変えられた人もいたのです。病気や生まれつき障害のある人、貧しい人、弱い人、社会の底辺に生きた人たちです。彼らは主イエスに出会って癒され、喜びと平安、希望を与えられました。そして主イエスの十字架と復活により自らの罪が赦され、「神は我々と共におられる」との確信を与えられたのです。
 今日に生きる私たちも同じです。主イエスを神の子と信じない多くの人の中で、わたしたちは小さな群れですが、主イエスによって見い出され、信じる者とされたのです。信じた後も弱いままで何も変わらないかも知れません。しかし、その心には主イエスが宿っているのです。

 

ハイデルベルク信仰問答の第一の問いは「生きるにも死ぬるにも、あなたの唯一の慰めは、何ですか」です。その答えは「…わたしの体も魂も、わたしのものではなく、主イエス・キリストの所有(もの)であるということです」とあります。言葉を変えるなら「神は我々と共におられる」ということではないでしょうか。

クリスマスの出来事、それは聖霊がのぞんで、神のいのちがマリアの体に宿り、御子がこの世に生まれてきたということです。同じようにわたしたちの心にも聖霊がのぞんでキリストが宿ったのです。「神は我々と共におられる」その体験をした人はマリアが聖霊によって子を宿したことをあり得ないこととは思わないでしょう。はじめもなく終わりもない創造者なる神がわたしたちの心に宿り、わたしたちもまたこのいのちによって永遠に生きる者とされているからです。

クリスマスは救い主がわたしたちに与えられたのを喜び、感謝する日です。そして、それと共に教会にこの救い主によって救われた新しい兄弟姉妹が加えられるのを感謝し、喜ぶ日でもあります。