2004年12月19日日曜日

ルカ1章26-38節「生まれる子は聖なる者」

第57号

 〈クリスマス礼拝〉

 ガリラヤの田舎町、ナザレに住む乙女マリアのところに天使ガブリエルが遣わされました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。天使の言葉を聞いてマリアは驚きました。そして天使は、まだ結婚していないマリアに子が生まれることを告げました。そのようなことはあり得ないはずです。しかし、ガブリエルはマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と言ったのです。聖霊は神です(ヨハネ四:二四)。したがって生まれる子の父は神だと言われるのです。ガブリエルは「その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と言われました。
 神の子が与えられる約束はサムエル記下に書かれています。そこでは主はダビデにこのような約束をしております。「主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」(六:一一~一四)。ここで主なる神は、わたしがその子の父となり、その子はわたしの子となると言われております。マリアに告げられた主イエスの誕生はその約束の成就でした。

聖書に「神は愛です」と記されていますが、わたしたちは時としてその愛を疑うことがあります(第一ヨハネ四:一六)。私をこのような試練に会わせる神は本当に愛なのかと思うのです。またわたしたちは神の義を疑うこともあります。何故、この世に不正がはこびり、神はそれを放置されているのだろう。神が全能であるなら何故この世を正義で支配されないのだろうかと思うのです。
 しかし、わたしたちは神の聖さについては疑うことはありません。「聖」は神の本質です。創造者なる神と被造物との間には越えがたい壁があります。それは神が聖だからでもあります。マリアから「生まれる子は聖なる者、神の子」です。神はその子の父であるが故にアダムとエバの犯した罪(原罪)の影響を受けていません。そしてその子は、「聖なる者、神の子」であるが故に罪を犯すことの出来ないお方でもあります。実際、生まれた時から死ぬまで少しの罪も犯すことはありませんでした。しかし、その子は同時に、アダムとエバの子孫であるマリアの子でもあります。主イエスは人の弱さを知っておられ、罪の誘惑に会われたのです。主イエスが神であるだけなら人との関係はなくなります。主イエスが人であるだけなら人の罪を救うことは出来ません。神であり人である主イエスであって初めて人を贖うことが出来るのです。それが救い主、メシアなのです。旧約聖書では羊や山羊などの動物の血を犠牲として捧げましたが、動物は人を贖うことは出来ません。儀式は真なるものの型であって、主イエスの血潮による贖いをわたしたちに教えるのです。

天使ガブリエルはマリアに「恵まれた方、主があなたと共におられる」と言いましたが、それは、マリアがお金持ちになる、苦労がなくなるということではありません。マリアの生涯は苦労の連続で、最後は愛する子の死を真近に見なければなりませんでした。しかし、どのような苦難の中にあっても「主があなたと共におられる」ということが恵みなのです。神の恵みを受けるに値しない者にも、主は共におられるのです。マリアは天使から「あなたは神から恵みをいただいた」と言われました。それは「聖なる者、神の子」を宿したからです。主イエスの母となったマリアは神から恵みをいただいたのです。神がその人を通して働かれるのであるなら、だれでも「あなたは神から恵みをいただいた」のです。わたしたちは自由について思い違いをしています。自分勝手に、気ままに生きることが出来るならそれが幸福だと思っています。しかし、本当の幸福はそうではなく神からなすべき仕事が与えられることなのです。それが恵みなのです。マリアが恵みをいただいたのは、「聖なる者、神の子」を宿し、産んで、育てることが出来たからでもあります。
 マリアは主イエスをその身に宿しましたが、わたしたちも心に主イエスを宿すことが出来ます。心の中に授けられた子は「聖なる者、神の子」です。その子がどんどん成長することによって信仰が増していきます。そしてついには主イエスの香りを放す者へと変えられていくのです。わたしたちもまた、マリアと同じように「あなたは神から恵みをいただいた」者なのです。

 

2004年11月21日日曜日

コリント一12章31-13章13節「愛がなければ」

第56号

 

 人は愛した人、愛された人をいつまでも覚えているようです。そのような学校の先生、友達のことは忘れません。また、特に初恋の人は忘れられないでしょう。そして思い出すたびに心が熱くなり、心が豊かになっていきます。しかし、今日の社会の大きな問題は、愛されたことのない人が人の子の親になるということです。そこに幼児「虐待」の現実があります。精神科医の斉藤学先生は幼児虐待には四つの型があるといいます。たたく、落とす、傷つけるといった身体的虐待、言葉や仕打ちによる心理的、精神的虐待、これは外的なものより深い傷を心に残すといわれます。それから性的虐待、そして義務、責任の放棄による虐待です。児童相談所への訴えは年間一万件を越え、実数はその数倍に上るといわれます。職員や専門知識を持った人が足りないため多くの場合、適切な対応が取られないまま放置されているようです。親に愛されなかった人は自分の子の愛し方が分かりません。人から愛されたことのない人は人をどのように愛したらよいのかが分からないのです。

 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」と聖書にあります(マタイ六:二四)。神と富を同時に愛することが出来ませんし、自分と同じように人を愛することはできません。愛には自己犠牲が伴うからです。自分の欲望がお金で買え、自分さえよければと思うことにより、様々な社会的弊害を生み出します。時に、人は自分の子ですら邪魔になり、殺してしまうこともあるのです。いずれにせよ、人のことを考えていたら自分が落伍者になりかねない厳しい競争社会に生きています。「不法がはこびるので、多くの人の愛が冷える」時代でもあるのです(マタイ二四:一二)。
 神の本質は愛です。「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」とあるように、神の愛は決して見捨てない、忘れないことによって示されています(イザヤ四九:一五、一六)。ルカによる福音書にある放蕩息子のたとえ話では、子は父を捨てて家を出て行きましたが、父はその子を一日たりとも忘れることはありませんでした(一五:一一~三二)。放蕩息子が家を思い出し、帰ることが出来たのは、息子の罪を御自分の十字架で赦している父がいたからです。その前提なくして、何故、父がこの放蕩息子をとがめることなく赦しているのかが分からなくなります。この放蕩息子の帰りを待つように天の父はわたしたちを待っています。たとえわたしたちの罪はどのようなものであっても、神ご自身のいのちによって既に贖われているのです(ヨハネ三:一六)。
 わたしがアメリカの大学に留学していた時、中国から来た王常明という方がいました。北京の近くの出身でしたが、第二次大戦後、共産党に追われ、国民党と共に台湾に逃れて来たキリスト者でした。台湾で弁護士になるための勉学の最中、牧師となる召命を受けました。そして牧師になりアメリカに留学して来たのです。既に結婚し、二人の子供がいましたが、留学中は親しくさせていただきました。しかし、卒業と同時に彼はアメリカに留まり二十数年の歳月が流れました。その彼が、わたしが牧師になったと聞いて日本にやって来ました。そして彼の口から出た言葉はわたしを驚かせました。毎朝、一日も欠かさずわたしが伝道者となるように祈っていたのです。その祈りが答えられたというのです。中国人でしかもこのように遠く離れていても祈り続けることができたのは主イエスの祈りを祈りとしてきたからに他なりません。

 「信仰、希望、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」とあります(一三:一三)。わたしたちが死んで復活し、御国に入るなら、信仰も希望も全てが現実となります。しかし、愛だけは御国でも続くのです。愛は決して止むことはありません。信仰、希望、愛があれば祈ることができます。しかし、その中で最も大切なのは愛です。愛があれば祈り続けることができるからです。妻とわたしは秋田に住んでいた母のために祈っていましたが、今年のイースターに受洗しました。愛の伴う祈りによって人は救われるのです。愛する者のために祈って下さい。夫、妻、子供、孫のために祈るのです。愛があれば決して見捨てることなくその人を思いやることができます。そして、この愛の祈りの輪を他の人へと少しずつ広げて、大きくしていくのです。今日の社会の問題は自分中心による愛の欠如ですが、祈りによって人を愛することができるように変えられます。そして、わたしたちの教会も「祈る教会」に変えられ、「伝道する教会」になるのです。

2004年10月17日日曜日

コリント一11章2-34節「新しい契約」

第55号

 
 聖書は旧約と新約の二部に分かれています。「約」という字が共通ですがこれは「契約」の「約」です。従って古い「契約」と新しい「契約」の書を意味します。契約には当事者双方が義務を負う双務契約と片方だけが義務を負う片務契約があります。わたしたちの生活の身近な例としては、双務契約は売買、賃貸、雇用などの契約です。片務契約は遺産相続の約束や戦勝国が敗戦国に一方的に課す義務などです。
 旧約聖書に書かれている片務契約の代表としてアブラハム契約があげられます。神はアブラハムを選び、子孫を与えること、土地を与えること、そして祝福の源になることを約束されました。アブラハムに求められたのは信じたしるしとしての割礼だけで、この約束の達成のためにアブラハムがしなければならないことは何もありませんでした。神は約束された全てをご自身で成就なされるのです。双務契約の代表はシナイ(モーセ)契約です。神はイスラエルの民を奴隷であったエジプトの地から救われ、十戒を与えられました。律法への服従は繁栄をもたらし、背反は裁きをもたらします。従って人もまたこの律法に縛られることになります。この律法を守り、割礼を受けた民による宗教共同体が形成され、イスラエル(神の民)が生まれました。神はこの民に幕屋を造るように命じ、彼らの過失による罪の贖いのための羊や山羊等の動物の生贄を求められました。しかし、イスラエルの民は神との契約を守ることが出来ませんでした。契約を結んだ直後ですら金の子牛を造り、偶像を礼拝しはじめたからです。彼らはキリストを試み、裁きの対象となってしまいました(九節)。その結果、大多数の人たちは滅ぼされました。しかし、神に選ばれたきわめて僅かの人たちは信仰を全うしたのです。彼らは苦難と試練を経て、与えられた信仰を後世に継承しました。イスラエルの国家についても同じことが言えます。北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ、後に残された南王国ユダもまたバビロニアによって滅ぼされました。エルサレムと神殿は崩壊し、民はバビロンや他の異教の地に捕囚として連れて行かれました。しかし、神は時が来るとイスラエルの民を再び約束の地に戻されました。国家もまた苦難と試練を経て生き残ったのです。それは神がシナイ(モーセ)契約を守らない民であっても、アブラハム契約を守っておられるからに他なりません。

 時が満ちて神はイスラエルの民に約束のメシアを与えられました。それが主イエスです。主イエスはアブラハムに約束された「子孫」なのです(ガラテヤ三:一六)。主イエスはわたしたちに永遠の命を約束されました。この約束を自分のものにするためにわたしたちがしなければならないことは何もありません。主イエスご自身がわたしたちに代わって清い生涯を歩まれ、わたしたちの罪を贖うために十字架におつきになったからです。神である主イエスご自身が契約となられたのです。この契約はアブラハム契約と同じ片務契約です。わたしたちは信じるだけで救われるからです。そして神は信じた者たちに心の割礼である聖霊を与えられます。しかし、このように主イエスによって救われた者は、律法を守るように求められていることを知るようになります。その律法とは十戒と同じく、神を愛し人を愛するということに要約されます。それは主イエスが実行されたことでもあります。それを知って行わない者は裁かれます。しかし行うなら神の栄光を現す者となり、神からの誉れを受けるのです。わたしたちは神と双務契約をも結ぶのです。

 旧約では律法は石の板に刻まれ、アブラハムに約束されたカナンの地に建設される神の国の住民にふさわしくするものでした。しかし、新約では律法は心に刻まれ、天の御国の住民にふさわしくするのです。心に刻まれた主イエスによって、はじめて心にかかっている覆いが取り除かれ、真実をはっきりと見ることができるようになるのです。それは、わたしたちはこの世では寄留者で、来たらんとする都こそ本国ということです。御国に入る望みを持っている者にとって、誤って罪を犯すことはあっても、故意に罪を犯し続けることは出来ません(Ⅰヨハネ一:一〇、三:六)。御国を信じる者にとって、双務契約は義務とはならず、喜びとなります。石の板に書かれた古い契約は、わたしたちに罪を教えますが、主イエスの新しい契約はそれだけでなく、わたしたちの心に働きかけ、喜んで守ろうとする意志の力も与えられるのです。それが二つの契約の違いで、古い契約は新しい契約の影にすぎません。しかし、古い契約は新しい契約の理解を助けます。その意味で主イエスの契約は古い契約である十戒を成就させるものなのです。

2004年9月19日日曜日

コリント一7章1-40節「定められた時」

第54号


 
 石川栄一先生(北本教会牧師、日本聖書神学校教授)の「旧約聖書における『エース』の理解」(学報、第一一四号)には次のようなことが書かれています。ユダヤ人哲学者A.J.ヘッシェルはユダヤ教を定義して、「歴史の宗教、時間の宗教」とし、また、旧約聖書は、「歴史の中で、ある特定の時を選んで、神が出来事を起こしてきたその記録書」である。
 「時」にはクロノスとカイロスがあります。クロノスは時の流れであり、カイロスは出来事としての時です。ユダヤ人にとっての「時」はカイロスであって、それは生まれた時、結婚の時、子供が生まれた時、そしてまた、神との出会いの時、救いの時、選ばれた時です。「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」のです(コヘレト三:一)。わたしたちにもこのような時があります。これは全て神に定められた時であって偶然ではありません。
 

 ノアの時代にも発達した文明がありました。しかし、人々は自己中心となり、地は暴虐に満ちていました。神はこのような人を創られたのを後悔し、滅ぼそうとしました。しかし、主は義人ノアを他の人と一緒に滅ぼすことはできませんでした。ノアは主の前に恵みを得たのです。主はノアに洪水で地を滅ぼすと告げ、救われるために箱舟を作ることを命じました。ノアは主の言葉を信じ、箱舟を作りはじめました。船は長さが一三七メートル、幅二三メートル、そして高さが一四メートルという巨大なものでした。しかもノアはその船をアララト山のふもとに作ったのです。人々はノアのしていることが信じられませんでした。しかし、全てが出来上がり、動物たちとノアが箱舟に入ったとき、主は戸を閉められ、洪水が襲ったのです。水は山の頂上をも覆い、全ては水の中に没しました。古い世界は洪水によって滅び去りました。そして、新しい世界がノアとその家族八人によってはじまったのです。  今日の社会にもノアの時代と共通した面を見ることができます。文明が発達したにも関わらず暴虐が地に満ちています。南北間の経済格差、宗教対立、人種間の争い、そして女性、子供、いや幼児でさえ問わないテロによる殺戮、主はこれらのことをこのままで放置されることはないでしょう。この世を滅ぼされる「定められた時」があるのです。それは主イエスの再臨の時に他なりません。そして、主イエスはその後に来る新しい世界に生きることを赦される聖なる者たちを選ばれているのです。聖なる者とは主イエスの清い生涯と十字架の血による贖いを信じる者です。その人たちに主は定められた時が来るのを前もって知らせておられます。「定められた時」は主イエスを信じる者にとって救いの時ですが、信じない者にとっては裁きの時となるのです。

 主イエスが公生涯をはじめられる前、洗礼者ヨハネが現れ「時は満ち、神の国は近づいた」と宣べました(マル一:一五)。主イエスは、そのヨハネから洗礼を受けられ、福音を人々に宣べ伝えましたが、この世での神の国の実現を促す弟子たちの問いに「わたしの時はまだ来ていない」と言われました(ヨハ七:六)。そしてエルサレムの人たちがご自身を信じないのを悲しみ、わたしの時を知らない、と涙を流されました(ルカ一九:四四)。そして、公生涯の終わり、すなわち十字架につけられる前夜、ゲッセマネの園で主イエスは「時が来た」と言われました(マル一四:四一)。その「定められた時」とは、十字架上で流された血によってわたしたちの罪が贖われた救いの時に他なりません。しかし、死んで天に昇られた主イエスは、再びこの世に来れれることを約束されています。その時もまた「お定めになった時…」(使一:七)なのです。主は突如として箱舟の戸を閉められたように「人の子は思いがけない時に来る」のです(マタ二四:四四)。そしてその間、わたしたちもノアのように箱舟の建設を求められています。それが教会であって、建物や組織ではなく主イエスを信じる信徒の群れという意味です。教会こそ、来るべき神の裁きから救われるために逃げ込むことができる箱舟です。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と書かれている通りです(Ⅱコリ六:二)。
 ノアの時のようにこの世界の終わりは、新しい世界の到来でもあります。主イエスは、わたしたちが永遠に生きることのできる新しい天と地を用意されていることを教えます。従って、定められた時を見るということは永遠を見ることにつながります。それは今がどんな時であるかを知ることでもあります(ロマ書1311)。この世とこの世の有様は過ぎ去ります。ノアのときのように飲み食いし、嫁ぎ娶り、忙しく仕事をしている時に突如として滅びが襲うのです。わたしたちは永遠に続くその「定められた時」に目を留めて生きることが求められているのです。

2004年8月15日日曜日

コリント一5章1-13節「わずかなパン種」

第53号

 
 昔、イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトから荒野に出て行き、約束の地を目指しました。エジプトを出る時、神はモーセを通して一〇のしるしを行いましたが、その最後のしるしが過越でした。主はイスラエルの民にニサンの月、つまりイスラエルの正月(太陽暦の三月、あるいは四月に当たる)の一〇日に一才の雄の小羊を各家ごとに用意し、一四日の夕方に屠り、その血を入口の鴨居と二本の柱に塗るように求めました。そしてその小羊の肉を火で焼き、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べるよう命じたのです。民は腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べました。その夜、主の使いは入口の血を見てユダヤ人の家には入らずに過ぎ越し、エジプト人の家の長子を殺しました。ファラオは遂に「行って、主に仕えるがよい」とイスラエルの民を去らせたのです(創一二:三一)。除酵祭はこの過越の祭に続くもので、その日から二一日の夕方までの七日間、種入れぬパンを食べます。その間、家の中に酵母があってはならず、酵母入りのパンを食べた者は共同体から絶たれます。酵母なしのパンを食べたのは料理する時間がなかったためです(出エジ一二:三九)。また練り粉が酵母入りに比べて腐敗しにくかったからでもあります。イスラエルの民が過越祭や除酵祭を祝うのは、彼らが奴隷であったエジプトの地から主によって救われたことを思い起こすためです(出エジ一三:八、申一六:三)。また二つの異質なものを混ぜないということから、主への二心のない忠誠心を表わします。カナンの地定住後は、農耕の民としての意味が加わりました。新しい年の収穫である大麦や小麦が聖別されて用いられるため、パン種を使った古いパンを除去したのです。

 新約聖書は主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊」であることを証します(ヨハ一:二九)。主イエスのこの世での生はベツレヘムにはじまりました。主イエスの母マリアには泊まる宿もありませんでした。そのため、生まれた主イエスを飼い葉桶に寝かせなければなりませんでした。神である主イエスはわたしたちのために貧しくなってこの世に来られました。それは御許に誰でも来ることを許され、来た者を救われるためです。神の子の誕生を聞いたヘロデ王はベツレヘムとその近郊で生まれた二才以下の男の子の殺害を命じました。わたしたちもヘロデ王のように自分が神となって生きたいと思うのです。そのためには神ですら殺してしまいます。このような罪の世界で主イエスは「神を愛し、人を愛する」に要約される神の戒めを完全に遵守されて生き抜きました(マタ二二:三七~四〇))。しかし、主イエスの行き着いたところは十字架でした。神の刑罰を受けられたのです。それはわたしたちに代わって罪の怒りと呪いを受けられたもので、わたしたちが「罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」(Ⅰペト二:二四)。
 過越祭では血を流した小羊を食べます。神との契約は食事をすることによって締結されるのです。同じように主イエスの血による契約もまた食事によって締結されます(マタイ二六:二六~三九)。そして、主イエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない」と言われます(ヨハ六:五三)。主イエスに仕えることこそわたしたちが神に捧げる生贄です。聖餐はそのことを思い起こさせます。教会はそうすることによって聖別されて用いられます。

 わたしたちの先祖のアダムとエバが造られたとき、彼らは悪意のないパン種のない者でした。しかし神の戒めに背き、自らが神になって生きようとしたとき彼らの中にパン種が入って来ました。それ以来、人類はパン種入りの練り粉となってしまったのです。しかし、神の小羊である主イエスがこの世に遣わされることにより再びパン種の入っていない群れである教会が生まれました。主イエスを信じる者は主イエスの生涯と十字架により清められているからです。
 パウロはこの観点から教会内で不道徳なこと、そしてみだらなことを行う者への戒律の必要を説きます。教会の中にもし「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」がいて、その罪を認めないなら、そのような者を教会から除かなければなりません。パウロは「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか」とコリントの教会の人たちに警告します。彼らは自分のしていることを改めないばかりか、それを誇っているからです。教会の外の人は主イエスが裁きます。しかし、教会の内部の人たちはわたしたちの責任です。わずかであってもパン種の存在は他の教会の人たち全体に悪い影響を与えます。救われた者は互いに清め合う責任を担っているのです。

2004年7月18日日曜日

コリント一2章1-26節「キリストの思い」

第52号

 
 心は目で見ることも、手で触れることも出来ません。しかし、わたしたちに心があるのは誰でも知っています。かつて心は心臓にある、或いは内臓にあると大真面目に論じられた時がありました。しかし、今日の科学は、心は脳の機能であると言います。人間の脳は成人で重さは一二〇〇~一五〇〇グラムです。その容量は人間に最も近いといわれるゴリラやチンパンジー、オランウータンといった高等霊長類と比較して三倍ほどあります。ちなみにゴリラの脳の重さは四五〇グラムほどです。体重比でも人間の脳は他の動物より驚くほど大きく、また緻密に出来ています。脳は様々な感覚から得た情報を一瞬にして判断し、処理します。例えば目から入った情報は脳で大きさ、色、速度、奥行きなどに認識されます。
 心はこのようなわたしたちの脳に宿りました。夜空の星を見て永遠を思い、大自然を見てその雄大さに感動します。花を見て美しいと思い、その花を恋人に、或は死者に捧げたりします。また青春時代の甘酸っぱい初恋の味をいつまでも覚えています。死者への憐れみや弱い人への労わりの心もあります。自分さえ良ければいいという自分中心の心もあれば、様々な欲望のとりこになった心もあります。美しい心もあれば、醜い心もあるのです。
 意識は心の高度な働きです。それは、人間は自分が何をしている、あるいは何を考えているのかを知っているということです。それは自分の外に立って脳の働きを知っているということに他なりません。このことは大切なことです。何故なら自分がしていることを知っているということは、他人の行動や考えを推測することが出来るからです。かつて、人類の直接の先祖であるクロマニヨン人は、ネアンデルタール人が進化したものであると考えられていた時代がありました。しかし、その後の発掘などから、かなりの年代、地球上に共存していたことが分かるようになりました。しかし、彼らは結婚し子孫を残すことは出来ませんでした。それは、種が異なっていたからです。クロマニヨン人もネアンデルタール人も同じ石器時代を生き、脳の大きさも変わりませんでした。しかし、ある時代以降、ネアンデルタール人は地上から姿を消しました。学者によってはその理由の一つに、心の働きが異なっていたことをあげています。クロマニヨン人の方が心の働きが活発で、相手の行動をより深く推測することが出来、また創造的な活動をすることが出来たからであると言うのです。
 人間には心の根底に、その人をその人たらしめる根源的な働きをしている霊があります。例えばわたしたちはただ寝て食べて息をするだけでは生きていることにはなりません。人間は本当の意味で生きることとは何かを求めます。目に見える現象の背後にあって支配している真理を求めようとします。神とは何か、永遠とは何か、幸せとは何かと考えます。また善悪を知り、それによって自分を律し、また他人を裁きます。しかし、人間の心は各自異なるため様々な価値判断、倫理基準が生まれます。ある人にとっての善はある人にとって悪となり得ます。その結果、戦争はいつの時代にもあり、貧困の問題、環境の問題、また様々な社会問題は絶えることはありません。人間の理性を信じ、人類の将来は明るいと考える人はほとんどいないでしょう。

 神の霊はこのような心に宿ります。生まれつき人の心に宿っている訳ではありません。生まれながらの人にとって神の言葉である聖書は読んでも理解出来ませんし、面白いとはいえないでしょう。聖書に書かれている神の知恵は受け入れられません。しかし、いったん神の霊を受けるなら聖書ほど面白い書物はありません。主イエスは神であり、十字架の言葉が真実であることを知らされるからです。神の知恵は神によってのみ知ることが出来るのです。
 サタンは神の計画が分かりませんでした。ですから主イエスを十字架につけて殺したのです。もし知っていれば十字架で殺すようなことはしなかったでしょう。それどころか全力で阻止したことでしょう。サタンは主イエスを十字架で殺しましたが神はそれによってサタンを滅ぼし、人々を罪の縄目から解放しました。そして、復活された主イエスは、信じる者を神の民とされたのです。それは神の知恵でした。

わたしたちが「キリストの思い」を抱き、神と人とを愛して生きようとするにはまず神からの働きかけが必要です。宗教改革者ルターは「わたしはあなたのもとに行くことはできない。それゆえ、わが神よ、あなたが立ってわたしのところに来て下さい。わたしをあなたのもとに連れていって下さい」と祈りました。主イエスはわたしたちの心の扉をたたくのです(黙三:二〇)。それを知って心の扉を開くなら心の中に入ってきてくださるのです。それにより、わたしたちはキリストの心、すなわち霊を持つのです。

2004年6月20日日曜日

ヤコブ2章14-26節「行いの伴わない信仰」

第51号

 ヤコブは「行いの伴わない信仰」は「役に立たない」、「その人を救うことは出来ない」、「それだけでは死んだもの」であると言います。それに対し、多くのキリスト者は、パウロが言うように人が救われるのは信仰であって行いによるのではないと考えます。宗教改革者ルターもまた同じ信仰義認の観点からヤコブ書を「わらの書簡」として退けました。このヤコブの主張は、そのように考える人たちにとって違和感を覚えるのではないでしょうか。
 確かに人は信仰によって救われるのであって、救いのための良い行いは何の役にも立ちません。わたしたちが救われるために必要なことはすべて主イエスがしてくださいました。わたしたちは主イエスを信じる信仰によって救われるのです。では、行いは信仰とは関係ないのでしょうか。否、救われたわたしたちには良い行いが求められています。それがヤコブの主張です。この書簡は、もう既に救われたキリスト者を対象にして書いて送っているのです。
 主イエスも救われた人の行いの大切なことを強調しています。例えば山上の説教ですが、その終わりは「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると倒れて、その倒れ方はひどかった。」と締め括っています(マタイ五~七章)。
 アブラハムもまた神を信じる人でした。神はそのアブラハムに、独り子イサクを焼き尽くす捧げものとして献げるように求めたのです。神はアブラハムの子孫から救い主が生まれることを約束していたわけですからイサクを捧げればその約束は果たせなくなるはずです。にも関わらずアブラハムはイサクを捧げました。アブラハムは死からの甦りを信じていたからです。(ヘブル一一:一七~一九)。神はその行いを見てアブラハムの信仰を義とされたのです。アブラハムの信仰はわたしたちの信仰でもあります。主イエスは十字架につけられ、そして三日目に甦られました。それによってわたしたちの罪が赦され、復活することを教えられました。わたしたちもまたアブラハムと同じように死からの甦りを信じるのです。

 ルカによる福音書一七章には、一〇人の重い皮膚病の人たちが主イエスのところに来て「わたしたちを憐れんでください」と叫んだことが書かれています。主イエスは彼らを哀れみ、祭司のところに行くように言われました。そしてその途中、彼らの病気は癒されました。その内の人は大声で神を讃美しながら戻って来て、主イエスの足元にひれ伏して感謝しました。主イエスはその人に対し「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。ところが他の九人は主イエスのところに戻りませんでした。彼らは病気は癒されましたが、その罪は赦されませんでした。病気が癒されるのと罪が癒されるのとでは比較することが出来ません。病気はこの世だけのことですが、罪が赦されてはじめて永遠の命に生きることが出来るようになるからです。わたしたちの罪は二千年前の主イエスの十字架により赦されています。しかし、主イエスのところに来て感謝する人はほとんどいないのです。感謝することこそ礼拝です。

 ローマ帝国時代、皇帝を神として礼拝することが求められました。このような社会にあって、教会に神を礼拝しに行くことは死の危険を冒すことでした。ローマには今でも隠れて地下で礼拝した跡、カタコンベが残っています。また、当時のキリスト者を表現して「無学、労働者、老婆…言葉で信仰を言い表せないものも多くいる…彼らは行為で表し、良いことを実行…。打たれても…、盗まれても…、求めるものに与え、隣人を自分自身のように愛している」と書かれたものが残っているそうです。多くのキリスト者が礼拝の自由を奪われ、迫害され殺されました。にも関わらず、キリスト者は非常な勢いで増加していったことは歴史が示しています。そしてついには、ローマ帝国はキリスト教を国教としました。
 わたしたちは自覚症状のない重い心の病気にかかっています。それは自己中心という病です。主イエスがわたしたちの罪のために十字架につけられ、それによってわたしたちに永遠の命を与えられました。しかし感謝せず、礼拝に出て何の得があるのかと考えるのです。また、忙しい、家族が良く思わない、環境が整えられたらと様々な理由をつけて主イエスのところに来ようとはしません。しかし、感謝のない生活は喜びや目的のない空しいものです。感謝があれば神に喜ばれる生き方をしようとします。感謝のない信仰は行いのない信仰となってしまいます。礼拝は決してキリスト者の義務ではなく、救われた者が主イエスにひれ伏す感謝の表現なのです。

2004年5月16日日曜日

ヨハネ21章1-25節「わたしを愛しているか」

第50号

 
復活された主イエスは、ガリラヤの海辺で弟子たちにご自身を現されました。そして食事を共にされた後、ペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。ペトロは主イエスが十字架につけられる前、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言いました(マタイ二六:三三)。しかし、主イエスが捕らえられると、この人を知らないと三度も否みました。ペトロは「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。主イエスの使われた愛という言葉はギリシャ語で「アガペー」でした。しかし、ペトロは「フィレオー」の愛で答えています。二度目に主イエスは「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われました。ペトロはやはり主イエスのアガペーに対しフィレオーの愛で答えています。三度目に主イエスは「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われました。主イエスはここではアガペーではなくフィレオーを用いておられます。ペトロは「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたは良く知っておられます」とフィレオーで答えています。

  ペトロは三度も「わたしを愛しているか」と主イエスに言われて「悲しくなった」とあります。主イエスを裏切る前であればペトロはアガペーでもって答えたことでしょう。「アガペー」、それは聖書では神の愛であって報いを求めない愛です。それは、主イエスが十字架で示されたわたしたち罪人への愛です。ご自身に敵対する者への愛は、わたしたちには到底及びもつかない愛です。「フィレオー」の愛は親の子への愛、夫婦の愛、友情などに用いられます。ギリシャ語にはもう一つ「エロース」と呼ばれる愛があります。自分の自我、欲望を満足させる愛です。「フィレオー」にせよ「エロース」にせよ、わたしたち人間の愛は相手が自分の愛を受け入れるにふさわしい者であって初めて成り立ちます。愛は裏切り者に対して注がれることはありません。ペトロは自分には主イエスのような愛がないのを知ったのです。
 主イエスはペトロを三度も「ヨハネの子シモン」と呼ばれました。生前、主イエスはヨハネに「ペトロ」(岩)という名をお与えになりました。しかし、三度まで主イエスを裏切ってしまった彼は、もはや信仰にしっかりと立つ「岩」とは程遠い存在でした。十字架につけられる前までは、他の弟子たちと一緒に神の国の建設を夢見ていました。しかし、今は漁師の子ヨハネに戻ってしまったのです。ペトロは「悲しくなった」のです。

 主イエスを三度否んだペトロは復活の主に会って再び心を砕かれました。わたしたちは主に用いられるためには、心が砕かれる必要があります。モーセはエジプトのファラオの娘の子として育ちました。四〇歳になったとき自分の民であるヘブル人のために立ち上がりました。しかし、彼に続く者はいませんでした。彼はミデアンの地に逃れ、そこで義理の父エトロの羊を飼い、四〇年間を荒野で過ごしました。そこでの生活から忍耐を学び、心が砕かれたのです。使徒パウロもまた主イエスに出会う前、キリスト者を迫害していました。しかし、彼はダマスコに行く途中、主イエスご自身によって「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と言われ、心を砕かれたのです。
 ペトロはその後、他の弟子たちと共に聖霊を受け、伝道の先端に立ち、大きな働きをしました。伝承によれば、キリスト者への迫害がローマで起こったとき、ペトロは弟子たちの勧めに従ってアッピア街道を下っていました。その途中、主イエスとすれ違ったのです。驚いたペトロは「クオ・バァディス・ドミネ」(主よ、どこに行かれるのですか)と訊ねました。すると主イエスは「わたしはあなたに代わって再び十字架にかかるためにローマに行く」と答えました。ペトロは驚いて主イエスにひざまづき、ローマに戻り、逆さ十字架につけられたと言われています。主イエスを二度と裏切りたくなかったのです。ペトロは「わたしを愛しているか」と三度も言われた主イエスを忘れることは出来なかったのでしょう。

  ヨハネの福音書は「初めに言があった。…万物は言によって成った」ではじまり、「わたしを愛しているか」で終わっています。そして、その中心は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ことです。わたしたちの創造者である神がわたしたちの贖罪者でもあります。神は十字架によって真実の愛をわたしたちに教えます。自らの命を棄てることによって、わたしたち罪人に永遠の命を与えられたからです。その神が「わたしを愛しているか」と言われるのです。

 

2004年4月18日日曜日

ヨハネ20章1-18節「わたしは主を見ました」

第49号

〈イースター礼拝〉

 主イエスは十字架につけられ墓に葬られましたが、三日目に甦られました。しかし、復活後は生前とはどこか違っていました。マグダラのマリアは園丁だと思いました。また、ガリラヤに戻り、再び漁師となった弟子たちは、岸辺に立ち、声をかけられた方が誰だか分かりませんでした。そして、エマオ途上にあった二人の弟子も、道中一緒にいたにもかかわらず、その人が主イエスだとは気が付きませんでした。彼らは名前を呼ばれたり、食事の時にパンを裂くその様子を見て、初めて主イエスであることを知ったのです。

主イエスは復活し、まずマグダラのマリアにご自身を現わされました。このマリアは以前、七つの悪霊に取りつかれていました(マルコ一六:九)。彼女は自分の身体を売って生きていたとも言われ、精神的な病で苦しんでいたとも言われています。いずれにせよ、苦しみと暗黒の生活を送っていたことには違いありません。人から生きる価値のない人間だと思われ、自らもそのように認めていたのです。人々から好奇の目で見られ、いとまれ、さげすまれ、笑い者になっていたのではないでしょうか。救いとは縁のない、いや救われるはずのない罪人でした。主イエスはそのような女を救われました。救われたマリアは、誰よりも熱心に、陰日なたなく主イエスに仕える者となりました。持っているものすべてを捧げ、主イエスに従う婦人たちの模範となったのです。しかし、そのような生活は長くは続きませんでした。主イエスは捕えられゲッセマネで十字架につけられたからです。十字架を担いでゴルゴタへの道を歩む後を、マリアは泣きながらついて行きました。マリアをはじめ、主イエスの母等、婦人たちは、主イエスを遠くから見ていましたが、いつしか十字架の下に来て立ちつくしました。墓に葬られた後も、その場を離れることが出来ませんでした。しかし、次の日が安息日であったため、彼女たちは三日目の朝早く墓に再び戻って来たのです。

 主イエスが復活して最初にご自身を現されたのは、母マリアでも弟子たちでもく、マグダラのマリアでした。聖書には幸運の逆転について書かれてあります。人間的に力のある者、豊かな者が低くされ、弱い者、貧しい者が主にあって強くされ、豊かにされるのです。ハンナの歌やマリアの歌、山上の説教に見られます(サム上二、ルカ一:四六~五五)。聖書に出て来る偉大な人は、主によって強くされ大きな働きをしました。マグダラのマリアもまた、主イエスに出会い力強く生きることができるようにされたのです。
 復活とは死んでいた者が生き返ることですが、それはマグダラのマリアだけではありません。主イエスと一緒に二人の男が十字架につけられましたが、その内の一人は主イエスに「この方は何も悪いことをしていない」、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。すると、主イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました(ルカ二三:四一~四三)。この人もまた、十字架の上で死んでいたのに生き返ったのです(ルカ二三:四〇~四三)。同じように主イエスの十字架の出来事を見ていた百人隊長も「本当に、この人は正しい人だった」と告白し救われました(ルカ二三:四七)。この人もまた生き返ったのです。アブラハムも同じです。主から一人息子のイサクを焼き尽くす献げ物としてささげるように命じられたとき、彼の心は死にました。そして、三日後、目的地に着き、まさにイサクに手をかけようとしたとき、主は代わりの羊を与えられました。アブラハムは主に会って生き返ったのです(創世記二二章参照)

 マグダラのマリアは「わたしは主を見ました」と告白しました。主イエスはすべての人にご自身を示されたわけではありません。マリアは復活の主イエスに「マリア」と呼ばれて、初めてその人が誰であるかに気が付いたのです。主イエスは多くの人の中から「アブラハム」を、また「モーセ」、「サムエル」、「サウル(パウロ)」を呼ばれてご自身を示されたのです。
 主イエスに出会った人は生き返るです。主イエスは今も生きておられます。それは、主イエスが十字架の死から復活されたからです。主イエスの復活こそキリスト教の要です。復活なくして主イエスへの信仰は生まれません。わたしたちもまた復活の主イエスに出会い、マグダラのマリアと同じように「わたしは主を見ました」と告白するのです。そして「主から言われたこと」を宣べ伝えることにより救われます。主イエスを信じる者は、この世で生きるだけでなく、死から復活し、永遠の御国で再び主イエスにまみえることが約束されているのです。

2004年3月21日日曜日

ヨハネ18章38b-19章16節「王と自称する者」

第48号
 
 ユダヤ人指導者たちは主イエスを捕え、最高法院で裁くために大祭司カイアファのところに連れて行きました。自らを神の子としたその罪は死に値したのです(マタイ二六:六六)。しかし、彼らはその判決に従ってすぐに主イエスを処刑することはしませんでした。死罪でも極刑である十字架刑でなければならなかったのです。誰でも木にかけられるものは神に呪われたもので、そのような者がメシアであるはずはなかったからです(申二一:二三)。彼らは主イエスをローマ総督ピラトのもとに連れて行き、政治犯として裁くための正式な裁判を求めました。十字架刑に処することが出来たのはローマの裁判だけだったからです。
 ローマ総督ピラトは主イエスを見たとき、これはユダヤ人の宗教的な事柄であって、彼はローマ帝国に反逆する罪を犯してはいないことをすぐに見抜きました。だれでも無実の人を十字架につけたくはありません。ピラトは主イエスに茨の冠をかぶせ、紫の服を着せ「見よ、この男だ」と皆の前に引き出しました。そして三度も「わたしはこの男に罪を見いだせない」と繰り返しました。また再三、この男は「あなたたちの王だ」と言い、自分たちの問題は自分たちで処理するように求めました。しかし、ユダヤ人指導者たちは民衆を扇動し、「十字架につけよ、十字架につけよ」と騒ぎたて、そして「王と自称する者は皆、皇帝に背いています」、「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」と叫び、ピラトがこの男を赦すなら彼自身もまたローマ皇帝に敵対することになると脅迫したのです。
 エルサレムの治安の維持こそローマ総督ピラトの務めでした。民が暴動を起こすなら責任を問われ、その地位を失いかねません。また、ローマ皇帝は神とされ、それ以外の者が自分を王、あるいは神とするなら皇帝に敵対する者と見做されたのです。ピラトはローマ総督の地位を失う危険を冒してまで主イエスを救うことは出来ませんでした。そして、それが明白な証拠もなく、主イエスをローマ帝国に反逆する政治犯として訴えたユダヤ人指導者たちのねらいでもありました。ピラトは彼らの要求に屈して、無実の主イエスを十字架に引き渡してしまいました。

 主イエスは自らを神の独り子とされ、神の権威で律法を解釈されて人々に教えられました。つまり神を愛し人を愛することがどのようなことなのかを説かれ、罪人の友となり、その家に入って一緒に食事をされました。また病気の人を癒され、自然を支配する力を示されました。しかし、ユダヤ人指導者たちの考えによれば、メシアはダビデのように王としてユダヤをローマ帝国から解放し、その神の国は世界に広がるはずでした。しかしながら、主イエスはそのような王として立ち上がることはなされませんでした。また、弟子たちにも剣を持って戦うことは赦されませんでした。このようなメシアはユダヤ人指導者にとって、「王と自称していた者」にすぎませんでした。そしてそれは、神を冒涜するものでした。そして、ユダヤ人指導者たちは多くの民が主イエスをメシアと信じ、自分たちから離れていったとき、主イエスをねたみ、恐れ、殺すことを決意しました。彼らもまたローマ総督ピラトのように指導者としての地位や名誉を守るため主イエスを十字架に引き渡したのです。

わたしたちの思い図ることは常にこの世のことです。ユダヤ人指導者だけでなく、三年間、主イエスと寝食を共にし、教えを受けた弟子たちですら、主イエスがいつ立ち上がるのかと、この世に神の国が来るのを待ち望んでいました。その意味で誰一人として主イエスを理解していた者はいませんでした。
 わたしたちは地位や人々からの賞賛を求めて生きようとします。しかし、本当は死んで神の前に立った時「忠実な良い僕だ。よくやった」と言われるほうを大切にして生きなければならないはずです(マタイ二五:二一)。この世の目で見るなら主イエスは「王と自称する者」にすぎなくなります。しかし、心の目で見るなら、主イエスはわたしたちの「王」であり、メシアなのです。世界中で読まれている童話、サン・テグジュペリの「星の王子さま」では、きつねは「心でみなくちゃ、ものごとはよく見えない」と言い、王子さまも「目はなにも見えないよ。心でさがさないとね」と言っております。目で見えない霊の世界に大切なものが隠されているのです。
 弟子たちが主イエスを「王」として理解するにはペンテコステの日を待たなければなりませんでした。その日以降、わたしたちは聖霊が人の内に住まわれることによって、その人を支配される主であり神であることを知らされたのです。

2004年2月15日日曜日

ヨハネ16章16-33節「わたしは世に勝っている」

第47号

 
 主イエスに出会った時、弟子たちは招きに応じてそれぞれの家族や仕事を棄てて従いました。神の国のためとはいえそれは大きな決心でした。しかし、主イエスに従っている間に彼らの心には棄てた以上の大きな希望が、いや野心といってもいいほどの夢を持つようになります。主イエスを知れば知るほど、このお方は確かにメシアだ、神の子だと確信を深め、そして自らの命を掛けてもこのお方を助け、この地上に神の国を建設しなければならないと思うようになったのです。それは、具体的にはローマの植民地になっていたユダヤの開放でした。ローマから独立させ、貧しいもの、障害のある者、虐げられている者、そのような弱い人たちが安心して生きていけるような社会をつくることでした。そしてそれはユダヤ人議会、すなわち大祭司を中心とする祭司や律法学者、サドカイ派、パリサイ派の人々ではなく主イエスが王として支配し、自分たちがそれを支える社会でした。そのような弟子たちに主イエスはその時が来たと言いました(一二:二三)。弟子たちの心は高揚し、これから生まれる神の国のことを思って身震いさえしたことでしょう。

  しかし、主イエスは弟子たちに「しばらくすると、あなた方はもうわたしを見なくなる」と言われたのです。あなたがたは「泣いて悲嘆に暮れる」、「悲しむ」、「苦しむ」とも言われました。弟子たちは「何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」とささやき合いました。「その時が来た」それは主イエスだけが御存知の十字架の時でした(一六:四)。それは弟子たちにとって自分たちの夢が挫折してしまう時でした。更に、主イエスを「わたしはこの人を知らない」と否認してしまうその時だったのです。三年間も寝食を共にし、教えを受け、仕えてきた師を裏切ってしまったら、それから先どのようにして生きていくことが出来るでしょうか。それだけでなく主イエスを十字架につけたユダヤ人たちは弟子たちの命をも求めるに違いありません。銀三〇枚で主イエスをユダヤ人に売ったイスカリオテのユダは自殺によって自分で自分のしたことの決着をつけました。主イエスを裏切ったことではユダも弟子たちも五十歩百歩です。取り返しのつかないことをしてしまったのです。ユダと違ったのは、苦難の中にあっても彼らにはなお仲間がいたことと復活の主イエスが力づけておられたことにあります。彼らは主イエスに守られていたのです。
 それらのことは神である主イエスには全てお見通しでした。「またしばらくすると、わたしを見るようになる」、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」と言われていたからです。

  主イエスについて知ることと主イエスを知ることとの間には大きな違いがあります。弟子たちは三年間、主イエスの教えを聞き、しるしを見てきました。主イエスの身近にいたにも関わらず、真の意味で主イエスを理解していませんでした。この地上に神の国がつくられるものとばかり思っていたからです。主イエスが十字架につけられ、三日目に甦り、天に上り約束の聖霊を受け、それを弟子たちの心に注がれた時、彼らははじめて主イエスがどのようなお方なのか、そして生前の約束がどのようなものであったのかを知ることが出来たのです。主イエスが「はっきり父について知らせる時が来る」と言われていた通りです。主イエスを知るためには信仰によって、自らの救い主として心の中に受け入れなければならないのです。
 ペンテコステの出来事こそ、主イエスが「わたしは再びあなたがたと会う」と言われたその約束が守られた日です。自らの力で生きることの出来なくなった弟子たちは、主イエスの命を与えられ、再び生きることが出来るようになりました。
 「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、主イエスはご自身の十字架の向こうに復活の命があることを御存知でした。それだけでなくご自身の十字架により、多くの人に命を与えることの出来る霊になられることを御存知でした(1コリ一五:四五)。それ故「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」のです(一六:七)。
 わたしたちも弟子たちと同じように、自分の力で生きることが出来ない苦難の時こそ主イエスに助けを求め、祈る時です。その時、イエスがわたしたちの心の中に入って来てくださり、わたしたちに代わって生きてくださるからです。主イエスがわたしたちの心の内に住まわれる時、誰でも新しく創造された者となります。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じるのです(Ⅱコリ五:一七)。この主イエスによってわたしたちもまた世に勝つことが出来るのです。

2004年1月18日日曜日

コリント二5章11-21節「新しく創造された者」

第46号

 <新年礼拝>

 年賀はがきは書くのは大変ですが、もらうのは結構嬉しいものです。特に日ごろ連絡を取り合うことのない古い友人からのは、元気でやっているなと思い、かっての思い出にしばし浸ることになります。そのような一つに以前の職場の上司からのがありました。会社でしかるべき地位を得、経済的にも家庭的にも恵まれた人生を送られて来た方でした。しかし、賀状を読みますと、最近は年を取り、病院通いも多くなり、精神的な不安を覚えるようになったとあり、特に、死を迎えるその時の精神状態はどうなのだろうと考えるようになった、と書かれていました。

 わたしたちはどのように素晴らしい人生を歩もうとも、キリストに結ばれていないなら人生の行き着く先は結局、不安なものとなってしまいます。人生の意味を見い出すことなく、一生を終わらなければならないからです。人生の意味とは、どこから来てどこに行くのか、そして何をしなければならないのかということですが、それは神を知ることによって初めて明らかにされます。
 永遠と有限、創造者と被造物の間には超えることの出来ない断絶があります。しかし、神は最初の人であるアダムとエバを神に似せて創られ、御自身との交わりの中に置かれました。しかし、アダムとエバは神に罪を犯すことにより神との交わりは失われたのです。聖なる神と罪なる人間との間にも超えることの出来ない断絶が生まれました。人間は自分の力、すなわち知恵や知識、経験によって神を知ることは出来ません。そしてその罪のゆえに、人は神の裁きの下にあるのです。罪によって生じた神との敵対関係の和解には仲保者が必要とされます。信仰の父、アブラハムは人と神との仲保者が与えられるのを信じ「主は備えてくださる」と言い、ヨブもまたどのような信仰も苦難も神に達することが出来ないのを知って「あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら」と言っております(創二二:一四、ヨブ九:三三)。しかし、神は時いたって人間との和解をもたらすために御子、主イエスをこの世に遣わされました。仲保者なる主イエスは神であるがゆえに少しの罪も犯されませんでした。それ故、天の父はその生涯を全く清いものとして受け入れることがお出来になったのです。しかし、同時に仲保者として主イエスは人でなければなりませんでした。人と同じ誘惑を受け、人の弱さも知っておられる方でなければならなかったからです。神であり人である主イエスが十字架上でわたしたちの罪を贖われたのです。そして死から復活され、父の御許に上られすべての人を生かす「霊」となられたのです。「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となった」とあるとおりです。(Ⅰコリ一五:四五)。主イエスを信じる者は誰でも主イエスの霊を受けることが出来るのです。この霊を受けた者こそ「キリストと結ばれる人」で、「新しく創造された者」なのです。主イエスは天の父の御許から来られ、父の御許に戻られることを御存知でした。そしてこの世で何をしなければならないかをはっきりと知っておられました。それは神の栄光をあらわすということです。主イエスと結びつくことによってわたしたちもまたどこから来てどこに行くのか、何をしなければならないかを知るようになります。

 新しく創造された者」に主イエスは生きる使命を与えられます。それは和解の使者となることで、主イエスと同じ仲保者の役目です。今日の社会ほどこのような仲保者が求められる時代はないでしょう。科学技術の進歩とは対照的に、人々の愛は冷え、生きる意味が見失われ、犯罪は増加し、自殺者が増えています。世界のいたるところで、イスラム教徒とユダヤ教徒、キリスト教徒が敵対し戦っています。肉親を殺された人々は多く、和解への道は絶望的に思われます。唯一の調停国たりえるアメリカもまたイスラエルよりの立場を鮮明にしたためイスラムの国々の反発を受けています。それに加え、石油、武器、覇権といった利権が絡み合っています。また南北間の経済格差は益々大きくなり、広がる貧富の差も人々の断絶を大きくしています。同じことが国の中にも、社会にも家庭にも見られます。断絶は他人だけでなく親子の間にも多く見られ、時に我子を暴力で死に至らしめる例すらあります。このような断絶の時代にあって教会、そしてキリスト者の使命は大きいと言わざるを得ません。主イエスが自らの命を棄てることによってわたしたちを神と和解させたように、わたしたちもまた神と人との和解のため自らの命を棄てることが求められているからです(マタ一六:二四)。それは狭い道であって、「新しく創造された者」だけが歩むことの出来る道なのです。