2004年1月18日日曜日

コリント二5章11-21節「新しく創造された者」

第46号

 <新年礼拝>

 年賀はがきは書くのは大変ですが、もらうのは結構嬉しいものです。特に日ごろ連絡を取り合うことのない古い友人からのは、元気でやっているなと思い、かっての思い出にしばし浸ることになります。そのような一つに以前の職場の上司からのがありました。会社でしかるべき地位を得、経済的にも家庭的にも恵まれた人生を送られて来た方でした。しかし、賀状を読みますと、最近は年を取り、病院通いも多くなり、精神的な不安を覚えるようになったとあり、特に、死を迎えるその時の精神状態はどうなのだろうと考えるようになった、と書かれていました。

 わたしたちはどのように素晴らしい人生を歩もうとも、キリストに結ばれていないなら人生の行き着く先は結局、不安なものとなってしまいます。人生の意味を見い出すことなく、一生を終わらなければならないからです。人生の意味とは、どこから来てどこに行くのか、そして何をしなければならないのかということですが、それは神を知ることによって初めて明らかにされます。
 永遠と有限、創造者と被造物の間には超えることの出来ない断絶があります。しかし、神は最初の人であるアダムとエバを神に似せて創られ、御自身との交わりの中に置かれました。しかし、アダムとエバは神に罪を犯すことにより神との交わりは失われたのです。聖なる神と罪なる人間との間にも超えることの出来ない断絶が生まれました。人間は自分の力、すなわち知恵や知識、経験によって神を知ることは出来ません。そしてその罪のゆえに、人は神の裁きの下にあるのです。罪によって生じた神との敵対関係の和解には仲保者が必要とされます。信仰の父、アブラハムは人と神との仲保者が与えられるのを信じ「主は備えてくださる」と言い、ヨブもまたどのような信仰も苦難も神に達することが出来ないのを知って「あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら」と言っております(創二二:一四、ヨブ九:三三)。しかし、神は時いたって人間との和解をもたらすために御子、主イエスをこの世に遣わされました。仲保者なる主イエスは神であるがゆえに少しの罪も犯されませんでした。それ故、天の父はその生涯を全く清いものとして受け入れることがお出来になったのです。しかし、同時に仲保者として主イエスは人でなければなりませんでした。人と同じ誘惑を受け、人の弱さも知っておられる方でなければならなかったからです。神であり人である主イエスが十字架上でわたしたちの罪を贖われたのです。そして死から復活され、父の御許に上られすべての人を生かす「霊」となられたのです。「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となった」とあるとおりです。(Ⅰコリ一五:四五)。主イエスを信じる者は誰でも主イエスの霊を受けることが出来るのです。この霊を受けた者こそ「キリストと結ばれる人」で、「新しく創造された者」なのです。主イエスは天の父の御許から来られ、父の御許に戻られることを御存知でした。そしてこの世で何をしなければならないかをはっきりと知っておられました。それは神の栄光をあらわすということです。主イエスと結びつくことによってわたしたちもまたどこから来てどこに行くのか、何をしなければならないかを知るようになります。

 新しく創造された者」に主イエスは生きる使命を与えられます。それは和解の使者となることで、主イエスと同じ仲保者の役目です。今日の社会ほどこのような仲保者が求められる時代はないでしょう。科学技術の進歩とは対照的に、人々の愛は冷え、生きる意味が見失われ、犯罪は増加し、自殺者が増えています。世界のいたるところで、イスラム教徒とユダヤ教徒、キリスト教徒が敵対し戦っています。肉親を殺された人々は多く、和解への道は絶望的に思われます。唯一の調停国たりえるアメリカもまたイスラエルよりの立場を鮮明にしたためイスラムの国々の反発を受けています。それに加え、石油、武器、覇権といった利権が絡み合っています。また南北間の経済格差は益々大きくなり、広がる貧富の差も人々の断絶を大きくしています。同じことが国の中にも、社会にも家庭にも見られます。断絶は他人だけでなく親子の間にも多く見られ、時に我子を暴力で死に至らしめる例すらあります。このような断絶の時代にあって教会、そしてキリスト者の使命は大きいと言わざるを得ません。主イエスが自らの命を棄てることによってわたしたちを神と和解させたように、わたしたちもまた神と人との和解のため自らの命を棄てることが求められているからです(マタ一六:二四)。それは狭い道であって、「新しく創造された者」だけが歩むことの出来る道なのです。