2004年2月15日日曜日

ヨハネ16章16-33節「わたしは世に勝っている」

第47号

 
 主イエスに出会った時、弟子たちは招きに応じてそれぞれの家族や仕事を棄てて従いました。神の国のためとはいえそれは大きな決心でした。しかし、主イエスに従っている間に彼らの心には棄てた以上の大きな希望が、いや野心といってもいいほどの夢を持つようになります。主イエスを知れば知るほど、このお方は確かにメシアだ、神の子だと確信を深め、そして自らの命を掛けてもこのお方を助け、この地上に神の国を建設しなければならないと思うようになったのです。それは、具体的にはローマの植民地になっていたユダヤの開放でした。ローマから独立させ、貧しいもの、障害のある者、虐げられている者、そのような弱い人たちが安心して生きていけるような社会をつくることでした。そしてそれはユダヤ人議会、すなわち大祭司を中心とする祭司や律法学者、サドカイ派、パリサイ派の人々ではなく主イエスが王として支配し、自分たちがそれを支える社会でした。そのような弟子たちに主イエスはその時が来たと言いました(一二:二三)。弟子たちの心は高揚し、これから生まれる神の国のことを思って身震いさえしたことでしょう。

  しかし、主イエスは弟子たちに「しばらくすると、あなた方はもうわたしを見なくなる」と言われたのです。あなたがたは「泣いて悲嘆に暮れる」、「悲しむ」、「苦しむ」とも言われました。弟子たちは「何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」とささやき合いました。「その時が来た」それは主イエスだけが御存知の十字架の時でした(一六:四)。それは弟子たちにとって自分たちの夢が挫折してしまう時でした。更に、主イエスを「わたしはこの人を知らない」と否認してしまうその時だったのです。三年間も寝食を共にし、教えを受け、仕えてきた師を裏切ってしまったら、それから先どのようにして生きていくことが出来るでしょうか。それだけでなく主イエスを十字架につけたユダヤ人たちは弟子たちの命をも求めるに違いありません。銀三〇枚で主イエスをユダヤ人に売ったイスカリオテのユダは自殺によって自分で自分のしたことの決着をつけました。主イエスを裏切ったことではユダも弟子たちも五十歩百歩です。取り返しのつかないことをしてしまったのです。ユダと違ったのは、苦難の中にあっても彼らにはなお仲間がいたことと復活の主イエスが力づけておられたことにあります。彼らは主イエスに守られていたのです。
 それらのことは神である主イエスには全てお見通しでした。「またしばらくすると、わたしを見るようになる」、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」と言われていたからです。

  主イエスについて知ることと主イエスを知ることとの間には大きな違いがあります。弟子たちは三年間、主イエスの教えを聞き、しるしを見てきました。主イエスの身近にいたにも関わらず、真の意味で主イエスを理解していませんでした。この地上に神の国がつくられるものとばかり思っていたからです。主イエスが十字架につけられ、三日目に甦り、天に上り約束の聖霊を受け、それを弟子たちの心に注がれた時、彼らははじめて主イエスがどのようなお方なのか、そして生前の約束がどのようなものであったのかを知ることが出来たのです。主イエスが「はっきり父について知らせる時が来る」と言われていた通りです。主イエスを知るためには信仰によって、自らの救い主として心の中に受け入れなければならないのです。
 ペンテコステの出来事こそ、主イエスが「わたしは再びあなたがたと会う」と言われたその約束が守られた日です。自らの力で生きることの出来なくなった弟子たちは、主イエスの命を与えられ、再び生きることが出来るようになりました。
 「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、主イエスはご自身の十字架の向こうに復活の命があることを御存知でした。それだけでなくご自身の十字架により、多くの人に命を与えることの出来る霊になられることを御存知でした(1コリ一五:四五)。それ故「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」のです(一六:七)。
 わたしたちも弟子たちと同じように、自分の力で生きることが出来ない苦難の時こそ主イエスに助けを求め、祈る時です。その時、イエスがわたしたちの心の中に入って来てくださり、わたしたちに代わって生きてくださるからです。主イエスがわたしたちの心の内に住まわれる時、誰でも新しく創造された者となります。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じるのです(Ⅱコリ五:一七)。この主イエスによってわたしたちもまた世に勝つことが出来るのです。