2004年3月21日日曜日

ヨハネ18章38b-19章16節「王と自称する者」

第48号
 
 ユダヤ人指導者たちは主イエスを捕え、最高法院で裁くために大祭司カイアファのところに連れて行きました。自らを神の子としたその罪は死に値したのです(マタイ二六:六六)。しかし、彼らはその判決に従ってすぐに主イエスを処刑することはしませんでした。死罪でも極刑である十字架刑でなければならなかったのです。誰でも木にかけられるものは神に呪われたもので、そのような者がメシアであるはずはなかったからです(申二一:二三)。彼らは主イエスをローマ総督ピラトのもとに連れて行き、政治犯として裁くための正式な裁判を求めました。十字架刑に処することが出来たのはローマの裁判だけだったからです。
 ローマ総督ピラトは主イエスを見たとき、これはユダヤ人の宗教的な事柄であって、彼はローマ帝国に反逆する罪を犯してはいないことをすぐに見抜きました。だれでも無実の人を十字架につけたくはありません。ピラトは主イエスに茨の冠をかぶせ、紫の服を着せ「見よ、この男だ」と皆の前に引き出しました。そして三度も「わたしはこの男に罪を見いだせない」と繰り返しました。また再三、この男は「あなたたちの王だ」と言い、自分たちの問題は自分たちで処理するように求めました。しかし、ユダヤ人指導者たちは民衆を扇動し、「十字架につけよ、十字架につけよ」と騒ぎたて、そして「王と自称する者は皆、皇帝に背いています」、「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」と叫び、ピラトがこの男を赦すなら彼自身もまたローマ皇帝に敵対することになると脅迫したのです。
 エルサレムの治安の維持こそローマ総督ピラトの務めでした。民が暴動を起こすなら責任を問われ、その地位を失いかねません。また、ローマ皇帝は神とされ、それ以外の者が自分を王、あるいは神とするなら皇帝に敵対する者と見做されたのです。ピラトはローマ総督の地位を失う危険を冒してまで主イエスを救うことは出来ませんでした。そして、それが明白な証拠もなく、主イエスをローマ帝国に反逆する政治犯として訴えたユダヤ人指導者たちのねらいでもありました。ピラトは彼らの要求に屈して、無実の主イエスを十字架に引き渡してしまいました。

 主イエスは自らを神の独り子とされ、神の権威で律法を解釈されて人々に教えられました。つまり神を愛し人を愛することがどのようなことなのかを説かれ、罪人の友となり、その家に入って一緒に食事をされました。また病気の人を癒され、自然を支配する力を示されました。しかし、ユダヤ人指導者たちの考えによれば、メシアはダビデのように王としてユダヤをローマ帝国から解放し、その神の国は世界に広がるはずでした。しかしながら、主イエスはそのような王として立ち上がることはなされませんでした。また、弟子たちにも剣を持って戦うことは赦されませんでした。このようなメシアはユダヤ人指導者にとって、「王と自称していた者」にすぎませんでした。そしてそれは、神を冒涜するものでした。そして、ユダヤ人指導者たちは多くの民が主イエスをメシアと信じ、自分たちから離れていったとき、主イエスをねたみ、恐れ、殺すことを決意しました。彼らもまたローマ総督ピラトのように指導者としての地位や名誉を守るため主イエスを十字架に引き渡したのです。

わたしたちの思い図ることは常にこの世のことです。ユダヤ人指導者だけでなく、三年間、主イエスと寝食を共にし、教えを受けた弟子たちですら、主イエスがいつ立ち上がるのかと、この世に神の国が来るのを待ち望んでいました。その意味で誰一人として主イエスを理解していた者はいませんでした。
 わたしたちは地位や人々からの賞賛を求めて生きようとします。しかし、本当は死んで神の前に立った時「忠実な良い僕だ。よくやった」と言われるほうを大切にして生きなければならないはずです(マタイ二五:二一)。この世の目で見るなら主イエスは「王と自称する者」にすぎなくなります。しかし、心の目で見るなら、主イエスはわたしたちの「王」であり、メシアなのです。世界中で読まれている童話、サン・テグジュペリの「星の王子さま」では、きつねは「心でみなくちゃ、ものごとはよく見えない」と言い、王子さまも「目はなにも見えないよ。心でさがさないとね」と言っております。目で見えない霊の世界に大切なものが隠されているのです。
 弟子たちが主イエスを「王」として理解するにはペンテコステの日を待たなければなりませんでした。その日以降、わたしたちは聖霊が人の内に住まわれることによって、その人を支配される主であり神であることを知らされたのです。