第49号
〈イースター礼拝〉
主イエスは十字架につけられ墓に葬られましたが、三日目に甦られました。しかし、復活後は生前とはどこか違っていました。マグダラのマリアは園丁だと思いました。また、ガリラヤに戻り、再び漁師となった弟子たちは、岸辺に立ち、声をかけられた方が誰だか分かりませんでした。そして、エマオ途上にあった二人の弟子も、道中一緒にいたにもかかわらず、その人が主イエスだとは気が付きませんでした。彼らは名前を呼ばれたり、食事の時にパンを裂くその様子を見て、初めて主イエスであることを知ったのです。
主イエスは復活し、まずマグダラのマリアにご自身を現わされました。このマリアは以前、七つの悪霊に取りつかれていました(マルコ一六:九)。彼女は自分の身体を売って生きていたとも言われ、精神的な病で苦しんでいたとも言われています。いずれにせよ、苦しみと暗黒の生活を送っていたことには違いありません。人から生きる価値のない人間だと思われ、自らもそのように認めていたのです。人々から好奇の目で見られ、いとまれ、さげすまれ、笑い者になっていたのではないでしょうか。救いとは縁のない、いや救われるはずのない罪人でした。主イエスはそのような女を救われました。救われたマリアは、誰よりも熱心に、陰日なたなく主イエスに仕える者となりました。持っているものすべてを捧げ、主イエスに従う婦人たちの模範となったのです。しかし、そのような生活は長くは続きませんでした。主イエスは捕えられゲッセマネで十字架につけられたからです。十字架を担いでゴルゴタへの道を歩む後を、マリアは泣きながらついて行きました。マリアをはじめ、主イエスの母等、婦人たちは、主イエスを遠くから見ていましたが、いつしか十字架の下に来て立ちつくしました。墓に葬られた後も、その場を離れることが出来ませんでした。しかし、次の日が安息日であったため、彼女たちは三日目の朝早く墓に再び戻って来たのです。
主イエスが復活して最初にご自身を現されたのは、母マリアでも弟子たちでもく、マグダラのマリアでした。聖書には幸運の逆転について書かれてあります。人間的に力のある者、豊かな者が低くされ、弱い者、貧しい者が主にあって強くされ、豊かにされるのです。ハンナの歌やマリアの歌、山上の説教に見られます(サム上二、ルカ一:四六~五五)。聖書に出て来る偉大な人は、主によって強くされ大きな働きをしました。マグダラのマリアもまた、主イエスに出会い力強く生きることができるようにされたのです。
復活とは死んでいた者が生き返ることですが、それはマグダラのマリアだけではありません。主イエスと一緒に二人の男が十字架につけられましたが、その内の一人は主イエスに「この方は何も悪いことをしていない」、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。すると、主イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました(ルカ二三:四一~四三)。この人もまた、十字架の上で死んでいたのに生き返ったのです(ルカ二三:四〇~四三)。同じように主イエスの十字架の出来事を見ていた百人隊長も「本当に、この人は正しい人だった」と告白し救われました(ルカ二三:四七)。この人もまた生き返ったのです。アブラハムも同じです。主から一人息子のイサクを焼き尽くす献げ物としてささげるように命じられたとき、彼の心は死にました。そして、三日後、目的地に着き、まさにイサクに手をかけようとしたとき、主は代わりの羊を与えられました。アブラハムは主に会って生き返ったのです(創世記二二章参照)