2004年8月15日日曜日

コリント一5章1-13節「わずかなパン種」

第53号

 
 昔、イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトから荒野に出て行き、約束の地を目指しました。エジプトを出る時、神はモーセを通して一〇のしるしを行いましたが、その最後のしるしが過越でした。主はイスラエルの民にニサンの月、つまりイスラエルの正月(太陽暦の三月、あるいは四月に当たる)の一〇日に一才の雄の小羊を各家ごとに用意し、一四日の夕方に屠り、その血を入口の鴨居と二本の柱に塗るように求めました。そしてその小羊の肉を火で焼き、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べるよう命じたのです。民は腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べました。その夜、主の使いは入口の血を見てユダヤ人の家には入らずに過ぎ越し、エジプト人の家の長子を殺しました。ファラオは遂に「行って、主に仕えるがよい」とイスラエルの民を去らせたのです(創一二:三一)。除酵祭はこの過越の祭に続くもので、その日から二一日の夕方までの七日間、種入れぬパンを食べます。その間、家の中に酵母があってはならず、酵母入りのパンを食べた者は共同体から絶たれます。酵母なしのパンを食べたのは料理する時間がなかったためです(出エジ一二:三九)。また練り粉が酵母入りに比べて腐敗しにくかったからでもあります。イスラエルの民が過越祭や除酵祭を祝うのは、彼らが奴隷であったエジプトの地から主によって救われたことを思い起こすためです(出エジ一三:八、申一六:三)。また二つの異質なものを混ぜないということから、主への二心のない忠誠心を表わします。カナンの地定住後は、農耕の民としての意味が加わりました。新しい年の収穫である大麦や小麦が聖別されて用いられるため、パン種を使った古いパンを除去したのです。

 新約聖書は主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊」であることを証します(ヨハ一:二九)。主イエスのこの世での生はベツレヘムにはじまりました。主イエスの母マリアには泊まる宿もありませんでした。そのため、生まれた主イエスを飼い葉桶に寝かせなければなりませんでした。神である主イエスはわたしたちのために貧しくなってこの世に来られました。それは御許に誰でも来ることを許され、来た者を救われるためです。神の子の誕生を聞いたヘロデ王はベツレヘムとその近郊で生まれた二才以下の男の子の殺害を命じました。わたしたちもヘロデ王のように自分が神となって生きたいと思うのです。そのためには神ですら殺してしまいます。このような罪の世界で主イエスは「神を愛し、人を愛する」に要約される神の戒めを完全に遵守されて生き抜きました(マタ二二:三七~四〇))。しかし、主イエスの行き着いたところは十字架でした。神の刑罰を受けられたのです。それはわたしたちに代わって罪の怒りと呪いを受けられたもので、わたしたちが「罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」(Ⅰペト二:二四)。
 過越祭では血を流した小羊を食べます。神との契約は食事をすることによって締結されるのです。同じように主イエスの血による契約もまた食事によって締結されます(マタイ二六:二六~三九)。そして、主イエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない」と言われます(ヨハ六:五三)。主イエスに仕えることこそわたしたちが神に捧げる生贄です。聖餐はそのことを思い起こさせます。教会はそうすることによって聖別されて用いられます。

 わたしたちの先祖のアダムとエバが造られたとき、彼らは悪意のないパン種のない者でした。しかし神の戒めに背き、自らが神になって生きようとしたとき彼らの中にパン種が入って来ました。それ以来、人類はパン種入りの練り粉となってしまったのです。しかし、神の小羊である主イエスがこの世に遣わされることにより再びパン種の入っていない群れである教会が生まれました。主イエスを信じる者は主イエスの生涯と十字架により清められているからです。
 パウロはこの観点から教会内で不道徳なこと、そしてみだらなことを行う者への戒律の必要を説きます。教会の中にもし「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」がいて、その罪を認めないなら、そのような者を教会から除かなければなりません。パウロは「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか」とコリントの教会の人たちに警告します。彼らは自分のしていることを改めないばかりか、それを誇っているからです。教会の外の人は主イエスが裁きます。しかし、教会の内部の人たちはわたしたちの責任です。わずかであってもパン種の存在は他の教会の人たち全体に悪い影響を与えます。救われた者は互いに清め合う責任を担っているのです。