2004年12月19日日曜日

ルカ1章26-38節「生まれる子は聖なる者」

第57号

 〈クリスマス礼拝〉

 ガリラヤの田舎町、ナザレに住む乙女マリアのところに天使ガブリエルが遣わされました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。天使の言葉を聞いてマリアは驚きました。そして天使は、まだ結婚していないマリアに子が生まれることを告げました。そのようなことはあり得ないはずです。しかし、ガブリエルはマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と言ったのです。聖霊は神です(ヨハネ四:二四)。したがって生まれる子の父は神だと言われるのです。ガブリエルは「その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と言われました。
 神の子が与えられる約束はサムエル記下に書かれています。そこでは主はダビデにこのような約束をしております。「主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」(六:一一~一四)。ここで主なる神は、わたしがその子の父となり、その子はわたしの子となると言われております。マリアに告げられた主イエスの誕生はその約束の成就でした。

聖書に「神は愛です」と記されていますが、わたしたちは時としてその愛を疑うことがあります(第一ヨハネ四:一六)。私をこのような試練に会わせる神は本当に愛なのかと思うのです。またわたしたちは神の義を疑うこともあります。何故、この世に不正がはこびり、神はそれを放置されているのだろう。神が全能であるなら何故この世を正義で支配されないのだろうかと思うのです。
 しかし、わたしたちは神の聖さについては疑うことはありません。「聖」は神の本質です。創造者なる神と被造物との間には越えがたい壁があります。それは神が聖だからでもあります。マリアから「生まれる子は聖なる者、神の子」です。神はその子の父であるが故にアダムとエバの犯した罪(原罪)の影響を受けていません。そしてその子は、「聖なる者、神の子」であるが故に罪を犯すことの出来ないお方でもあります。実際、生まれた時から死ぬまで少しの罪も犯すことはありませんでした。しかし、その子は同時に、アダムとエバの子孫であるマリアの子でもあります。主イエスは人の弱さを知っておられ、罪の誘惑に会われたのです。主イエスが神であるだけなら人との関係はなくなります。主イエスが人であるだけなら人の罪を救うことは出来ません。神であり人である主イエスであって初めて人を贖うことが出来るのです。それが救い主、メシアなのです。旧約聖書では羊や山羊などの動物の血を犠牲として捧げましたが、動物は人を贖うことは出来ません。儀式は真なるものの型であって、主イエスの血潮による贖いをわたしたちに教えるのです。

天使ガブリエルはマリアに「恵まれた方、主があなたと共におられる」と言いましたが、それは、マリアがお金持ちになる、苦労がなくなるということではありません。マリアの生涯は苦労の連続で、最後は愛する子の死を真近に見なければなりませんでした。しかし、どのような苦難の中にあっても「主があなたと共におられる」ということが恵みなのです。神の恵みを受けるに値しない者にも、主は共におられるのです。マリアは天使から「あなたは神から恵みをいただいた」と言われました。それは「聖なる者、神の子」を宿したからです。主イエスの母となったマリアは神から恵みをいただいたのです。神がその人を通して働かれるのであるなら、だれでも「あなたは神から恵みをいただいた」のです。わたしたちは自由について思い違いをしています。自分勝手に、気ままに生きることが出来るならそれが幸福だと思っています。しかし、本当の幸福はそうではなく神からなすべき仕事が与えられることなのです。それが恵みなのです。マリアが恵みをいただいたのは、「聖なる者、神の子」を宿し、産んで、育てることが出来たからでもあります。
 マリアは主イエスをその身に宿しましたが、わたしたちも心に主イエスを宿すことが出来ます。心の中に授けられた子は「聖なる者、神の子」です。その子がどんどん成長することによって信仰が増していきます。そしてついには主イエスの香りを放す者へと変えられていくのです。わたしたちもまた、マリアと同じように「あなたは神から恵みをいただいた」者なのです。