2005年2月20日日曜日

コリント二4章16-5章10節「転移ある永遠の住みか」

第59号

 
 二月十一日、大宮教会で「信教の自由と平和を求める」集会がありました。講師は都公立中学校教員の飯島信先生。先生は学校で生徒たちに「パン、平和、土地」のうち、どれが最も大切だと思うかと質問したそうです。するとどのクラスでも三分の二以上の子供たちが「平和」と答えたと言います。先生は「パン」と答えると思っていたのでその結果に驚かれたそうですが、多くの人はこの答えに共感するのではないでしょうか。しかし、今日、教育の現場ではこれとは違った意味での平和を求めているようです。平和は軍事力の均衡によってもたらされるとし、軍備の増強によって近隣諸国の脅威に対抗しようとしています。その結果、戦える人、国家のために命を捨てることが出来る若者の育成を考えているそうです。個人より公共の幸せを考える公民思想が教育の方針となり、このような国家主義の具体的な表れが、君が代斉唱、国旗掲揚ということになっているようです。明治のキリスト者、内村鑑三は日清戦争では戦争やむなしの考えでしたが、戦勝後の社会道義の低下、軍人の慢心などの弊害を見、日露戦争では非戦論を唱えました。わたしたちもまたこの内村鑑三に見習わなければならないと思います。

 パウロは人を「内なる人」と「外なる人」に分けて考えています。「内なる人」とは何なのでしょうか。以前NHKテレビで、大江健三郎氏が若者に「二つの目で外の世界を見ているこの『わたし』とは何なのでしょう」、と問いかけていました。貧しく、生きるのが困難な時代には却って自分の存在が意味を持っていたかもしれません。今日、多くの人が精神科の窓を叩き、わたしが何者なのかを教えてください、というのです。ただ食べ、寝て、息をしている存在は決して生きていることにならないからです。わたしたちは、自分以外の者、すなわち神から自らの存在の意味を問われています。従って、この問いに正しく答えることが出来るまで心は安らぐことはありません。パウロは「内なる人」である「わたし」は、「外なる人」である「身体」を住みかとしていると言っています。「外なる人」は「幕屋」、すなわちテントです。テントは仮の住みかです。すぐに古び、雨漏りや隙間風が入ってきます。わたしたちの身体もまたすぐに、目や耳が衰え、髪や歯が抜けてくるのです。わたしたちは死ななければならない存在です。そのとき「内なる人」は一体どうなるのでしょうか。
 多くの人は「外なる人」の終わりは同時に「内なる人」の終わりと考えます。生まれる前にもどるのです。ある人はいや「外なる人」が滅びても「内なる人」は生き続けると考えます。昔ギリシャの人たちはそのように考えていました。霊だけの世界があり、そこに入ると信じていたのです。わたしたち日本人も「草葉の陰で見ている」と言うような表現をします。わたしが死んでもあなたを見守っている。だから強く正しく生きなさいということです。古代エジプトの人たちは「内なる人」が死に旅立ってもいつかまた「外なる人」のところに戻ってくると考えました。そのため「外なる人」をミイラにしました。
 キリスト教はどうでしょうか。パウロは「地上の『幕屋』を脱いでも『裸』のままではいない」、「神によって『建物』が備えられている」と言います。それは復活の新しい身体で、神による新しい「人」の創造です。それは美しく、永遠に朽ちない身体です。

 わたしたちはこの復活の希望によって救われています。希望は「ある」ことが前提となっているのです。わたしたちは何故死を恐れるのでしょうか。肉体的な苦痛でしょうか、愛するものとの永遠の別れでしょうか、無に帰することでしょうか。そうかもしれませんが、本当の理由はわたしたちは神の前に立って、裁きを受けることを恐れているのではないでしょうか。この世でしてきたことの総決算をしなければならないからです。希望と同じように信仰もまた目に見えないものを「ある」と確信することです。「苦しみもだえている」、それは今、「天にある永遠の住みか」を持っていないからに他なりません。主イエスはわたしたちに身体の復活を約束され、ご自身がその初穂となられました。主イエスは今も生きておられます。「神は、その保証として(ご自身の)“霊”を(わたしたちの心に)与えてくださったのです」。聖霊はまだ自分のものとなっていない新しい「外なる人」が与えられることの手付金です。
 この世の為政者たちが若者たちに、パンのため、平和のため、土地のために命を捨てることを求める時代が来るのを許してはなりません。心の、そして世界の平和を求めるには主イエスのところに来る以外にはないのです。わたしたちに「天にある永遠の住みか」を約束されているのは主イエスだけだからです。