第59号
二月十一日、大宮教会で「信教の自由と平和を求める」集会がありました。講師は都公立中学校教員の飯島信先生。先生は学校で生徒たちに「パン、平和、土地」のうち、どれが最も大切だと思うかと質問したそうです。するとどのクラスでも三分の二以上の子供たちが「平和」と答えたと言います。先生は「パン」と答えると思っていたのでその結果に驚かれたそうですが、多くの人はこの答えに共感するのではないでしょうか。しかし、今日、教育の現場ではこれとは違った意味での平和を求めているようです。平和は軍事力の均衡によってもたらされるとし、軍備の増強によって近隣諸国の脅威に対抗しようとしています。その結果、戦える人、国家のために命を捨てることが出来る若者の育成を考えているそうです。個人より公共の幸せを考える公民思想が教育の方針となり、このような国家主義の具体的な表れが、君が代斉唱、国旗掲揚ということになっているようです。明治のキリスト者、内村鑑三は日清戦争では戦争やむなしの考えでしたが、戦勝後の社会道義の低下、軍人の慢心などの弊害を見、日露戦争では非戦論を唱えました。わたしたちもまたこの内村鑑三に見習わなければならないと思います。
多くの人は「外なる人」の終わりは同時に「内なる人」の終わりと考えます。生まれる前にもどるのです。ある人はいや「外なる人」が滅びても「内なる人」は生き続けると考えます。昔ギリシャの人たちはそのように考えていました。霊だけの世界があり、そこに入ると信じていたのです。わたしたち日本人も「草葉の陰で見ている」と言うような表現をします。わたしが死んでもあなたを見守っている。だから強く正しく生きなさいということです。古代エジプトの人たちは「内なる人」が死に旅立ってもいつかまた「外なる人」のところに戻ってくると考えました。そのため「外なる人」をミイラにしました。
キリスト教はどうでしょうか。パウロは「地上の『幕屋』を脱いでも『裸』のままではいない」、「神によって『建物』が備えられている」と言います。それは復活の新しい身体で、神による新しい「人」の創造です。それは美しく、永遠に朽ちない身体です。
この世の為政者たちが若者たちに、パンのため、平和のため、土地のために命を捨てることを求める時代が来るのを許してはなりません。心の、そして世界の平和を求めるには主イエスのところに来る以外にはないのです。わたしたちに「天にある永遠の住みか」を約束されているのは主イエスだけだからです。