2005年6月19日日曜日

マタイ5章1~12節「大きな報い」

第62号

 
山上の説教の「幸福への八つの態度」はいずれも同じ形の文です。すなわち前文は「…は、幸いである」と現在形で、後文は未来系となっています。最初は「心の貧しい人」です。貧しいとは地位も名誉も財産もない人です。社会で踏みつけられ、見放され、頼ることの出来るのは神だけという人です。二つ目は「悲しむ人」です。地位、名誉、財産を失うのは悲しいことです。親しい友人、親族、配偶者を失うとき、そして、自分の死を前にして悲しむのです。三つ目は「柔和な人」です。それは問題を神に委ねることの出来る人です。ですから、うろたえたり、あせったり、怒鳴ったりしません。語源的には「貧しい」と同じですが、人や神に対しもっと積極的に対応しています。神に対して謙虚で、人に対しては堂々としているのです。四つ目は「義に飢え乾く人」です。「義」とは神との平和です。それは主イエスの十字架の贖いによるものです。「義」とは社会的な正義を求めるということでもあります。「義を行う人」という意味ではありません。五つ目は「憐れみ深い人」です。他の人の心の中に入ってものを見、考え、感じることの出来る人です。他者との間に対立、嫉妬、脅威がないということでもあります。わたしたちの他者への憐れみは神に憐れみを要求する権利とはなりません。神の憐れみを受ける立場であるが故に人にも憐れみ深くなるのです。六つ目は「心の清い人」です。自己中心でない、二心なく純粋に神の栄光を求める人です。七つ目は「平和を実現する人」です。平和はヘブル語で「シャローム」です。それは争いがないこと以上を意味します。体と心が満足している状態です。旧約聖書のソロモンの時代の平和は、外にも内にも敵がない、災いがありませんでした。それが平和と繁栄の時代を招いたのです(列王記上五章)。最後は「義のために迫害される人」です。上記の実行のために戦い、迫害される人です。そして上記文すべてに該当する「幸い」とは「神に祝福される」ということです。「幸い」が神の贈り物として与えられるのです。

 「幸福への八つの態度」は、主イエスが荒れ野の誘惑で悪魔に試みられたとき示された態度でもあります。そして、その態度は生涯変わることはありませんでした。荒れ野での悪魔の最初の誘惑は、最初は飢えによる死の問題でした。主ご自身四十日四十夜の断食で飢えられ、死の淵に立たされました。その時悪魔は神の子なら石をパンに変えたらどうだと誘惑したのです。それは、断食で飢えた主イエスご自身だけでなくパレスチナの多くの人の問題でもあり、今日の問題でもあります。しかし、主イエスはご自身の意志で石をパンに変えられませんでした。あくまで天の父の御心に従うことをを優先されました。自分を無にして天の父の御心に委ねられ、わたしたち人間のあるべき模範となられました。主イエスは御自分のすべてを棄てられ二心なく天の父に仕えられ、天の父との間に完全なに平和がありました。主イエスこそ「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」、「憐れみ深い人」、「心の清い人」、「平和を実現する人」でした。しかし、そのすべてのが人々の主イエスへの迫害につながり、十字架の死で生涯を終わられました。

 主イエスはガリラヤの湖畔で、ペトロ(シモン)とアンデレ、そしてヤコブとヨハネに会うと「わたしについて来なさい。人間を捕る漁師にしよう」と言われました。弟子たちにとって主イエスに従うことは大きな「決断」でした。それは「回心」であり、それまでの生き方の「悔い改め」でした。救いは旧約聖書においては義務として神殿礼拝、安息日の厳守、そしてシナゴグ(ユダヤ人会堂)での聖書の学びがありました。新約聖書でも教会での礼拝、良い行い、そして聖書の学びが義務としてわたしたちに課せられています。しかし、それも大切ですが、もっと大きなことで、真の「幸い」は主イエスを「信じ」、「従う」ことにあります。それには主イエスを愛しているか、主イエスの御言葉に耳を傾け、その声を聴きながら生きているかどうかが問われます。それは主イエスと生きた交わりを持っているかどうかということであり、主イエスがあなたと共におられるかどうかということです。このように語りかける主イエスを知っているということは、永遠のいのちの確かさの中に生きることでもあります。なぜなら主イエスは死んで甦られたお方だからです。それは主イエス自身の約束が確かなものとされていることを知ることだからです。主イエスの言葉を聴くことは、永遠の命の確かさを知っているということであって、死とその力による恐怖から自由にされることです。それこそ「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には『大きな報い』がある」ということなのです。