第64号
主の祈りは六つの祈願から成っています。前の三つは神に関することです。後の三つは人に関することです。
二番目の祈りは「御国が来ますように」です。「御国」は神が王として支配する国です。それは罪が除かれている新しく創造された国です。この御国の完成こそがわたしたちキリスト者の最大の希望です。この王国は主イエスの来臨と共にもう既にはじまっております。わたしたちは新しいエルサレムである新天新地の一員としての自覚を持って生きることが大切です。
三つ目の祈りは「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」です。神に関する最も大切な祈りで、主イエスもまた十字架に渡される前夜、ゲッセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈りました(マタイ二六:三九)。
人に関する最初の祈りは「わたしたちに必要な糧(パン)を今日与えてください」です。モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民は荒れ野で朝、一日分だけのマナが与えられました。主イエスは愚かな金持ちのたとえを語られました。その人は大きな蔵を建て生涯の食べ物を蓄えました。しかし、天の父は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」と言ったのです(ルカ一二:一三~二一)。内村鑑三は「一日一生」のなかで、人は朝、生まれ、夜、死ぬ、と書いています。一日の苦労はその日一日だけで十分です。
人に関する二つ目の祈りは「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」です。「負い目」とは本来なすべきことをしていないことを意味します(マタイ二五:四二~四三)。赦しには「悔い改め」が伴います。罪を告白し、悔い改めることによってはじめて和解が生まれます。神に自分の罪を赦してくださいと祈りながら、相手の自分への罪は赦さないとすることは出来ないのです。「赦すこと」と「赦されること」は不可分です。同時に、わたしたちは相手を「赦す」ことはできても受けた痛みを「忘れる」ことはできないことを知らなければなりません。
人に関する三つ目の祈りは「誘惑にあわせないで下さい」です。「誘惑」とは悪魔が人を神から切り離そうとすることです。悪魔は人格を持った存在で、神に敵対し、この世を支配しています。悪魔との戦いは、神に委ねる外に勝ち目はありません。
「主の祈り」の最後は「み国も力も栄光も、とこしえにあなたのものだからです」です。この箇所は福音書にはありません。教会の礼拝の祈祷文として唱えられるようになったとき、追加されたものと思われます。