2005年8月21日日曜日

マタイ6章1~15節「主の祈り」

第64号

 
「主の祈り」は主イエスが弟子たちに「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」と教えられたものです。二人以上のキリスト者の集まりで祈られ、公同の祈りとして教会の礼拝で用いられます。
 主の祈りは六つの祈願から成っています。前の三つは神に関することです。後の三つは人に関することです。

 まず、「天におられるわたしたちの父よ」との呼びかけで始まります。天地の創り主を「父よ」と呼びかけることのできる恵みを感謝したいと思います。神の霊を与えられることなしにすべての被造物の創造者である神を「父よ」と呼ぶことはできません(ロマ書八:一三~一七)。わたしたちの心に、「神の霊」、「キリストの霊」が宿っているのです。わたしたち自身の霊もまたそのことを証しています。子であれば相続人でもあります。キリストと共に神の国を継ぐことができるのです。
 天の父への呼びかけに続く最初の祈りは「御名が崇められますように」です。主イエスを信じる前、わたしたちは神の御名を崇めませんでした(ロマ書一:二一、二五)。自分自身が神でした。しかし、主イエスの十字架の贖いを知った時、自分の罪を知らされ、御名を畏れ、讃美するようになりました。アダムとエバの犯した罪によって虚無に落されてしまった被造物全体もまた御名を崇めたいと思っているのを知らされるのです(ロマ書八:二〇~二二)。
 二番目の祈りは「御国が来ますように」です。「御国」は神が王として支配する国です。それは罪が除かれている新しく創造された国です。この御国の完成こそがわたしたちキリスト者の最大の希望です。この王国は主イエスの来臨と共にもう既にはじまっております。わたしたちは新しいエルサレムである新天新地の一員としての自覚を持って生きることが大切です。
 三つ目の祈りは「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」です。神に関する最も大切な祈りで、主イエスもまた十字架に渡される前夜、ゲッセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈りました(マタイ二六:三九)。
 人に関する最初の祈りは「わたしたちに必要な糧(パン)を今日与えてください」です。モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民は荒れ野で朝、一日分だけのマナが与えられました。主イエスは愚かな金持ちのたとえを語られました。その人は大きな蔵を建て生涯の食べ物を蓄えました。しかし、天の父は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」と言ったのです(ルカ一二:一三~二一)。内村鑑三は「一日一生」のなかで、人は朝、生まれ、夜、死ぬ、と書いています。一日の苦労はその日一日だけで十分です。
 人に関する二つ目の祈りは「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」です。「負い目」とは本来なすべきことをしていないことを意味します(マタイ二五:四二~四三)。赦しには「悔い改め」が伴います。罪を告白し、悔い改めることによってはじめて和解が生まれます。神に自分の罪を赦してくださいと祈りながら、相手の自分への罪は赦さないとすることは出来ないのです。「赦すこと」と「赦されること」は不可分です。同時に、わたしたちは相手を「赦す」ことはできても受けた痛みを「忘れる」ことはできないことを知らなければなりません。
 人に関する三つ目の祈りは「誘惑にあわせないで下さい」です。「誘惑」とは悪魔が人を神から切り離そうとすることです。悪魔は人格を持った存在で、神に敵対し、この世を支配しています。悪魔との戦いは、神に委ねる外に勝ち目はありません。
 「主の祈り」の最後は「み国も力も栄光も、とこしえにあなたのものだからです」です。この箇所は福音書にはありません。教会の礼拝の祈祷文として唱えられるようになったとき、追加されたものと思われます。

 神学者バルトは人間の父性は神の父性に似せて造られた、と言います。独り子のイサクを神から焼き尽くす捧げものとするように求められたアブラハムの苦悩は、天の父が御子イエスを十字架につけた苦悩に通じます。主イエスはすべての人の罪を赦すために十字架に付けられ、神との和解を人々にもたらしました。信じる者は誰でも救われます。人種や国籍の違いはありません。先に救われた者は主イエスに感謝し、まだ救われていない者へのとりなしの祈りをするようになります。
 八月は初めて原爆が投下された月であり、日本の敗戦の月です。主イエスがもたらされた和解のため、平和のため祈りたいと思います。