2005年10月16日日曜日

マタイ10章16~33節「だから、恐れるな」

第66号

 ある動物園の一角に覗き窓があり、そこに「世界で最も恐ろしい動物」という立て札が掲げてありました。覗くと人の姿が映りました。動物が人を殺すことはめったにありません。しかしながら、人類の歴史は戦争の歴史でもあります。どれほど多くの人が憎しみ合い、殺し合って来たか計り知れません。また、わたしたちは人を恐れて生きています。
 公式の席にネクタイを締めていなかったため、いたたまれない思いをした経験をお持ちの方がいるのではないでしょうか。皆と違った服装をしていただけでそのように冷や汗をかくくらいですから、人と違った考えを持ち、生きることは大変なことです。周りから浮き上がってしまうこともあるでしょう。そしてそれはキリスト教の信仰を持つ者にとってもいえます。せっかく教会に導かれて洗礼に至っても、そのことを知られないように生活する人もいます。信じることを心の問題とし、外側は普通の人と何ら変わらない生活をする人です。その結果、周りの人は長年一緒にいるにもかかわらず、その人がクリスチャンであることに気が付きません。
 信仰を持っていても人に伝えない、つまり行いの伴わない信仰は死んだ信仰です(ヤコブ書、特に二:一七)。もし、人前で信仰を言い表すならば親しい友が去っていくかもしれません。職場では仕事がしにくくなり、昇進に差し障りが出るかもしれません。また、家族の反対に会うかも知れません。主イエスへの信仰を告白するためには人を恐れる自分の心を克服しなければなりません。正しい信仰には不利益や迫害といった踏み絵がしばしば伴うのです。

 人への恐れを克服する唯一の道は「神への恐れ」を持つことです。それは死を見つめて生きるということでもあります。神だけが「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる」お方だからです。人は「体を殺しても、魂を殺すこと」はできません。人の手に落ちるより生ける神の御手に落ちることの方がもっと恐ろしいことなのです。
 「死ぬこととは人のことと思いきや、これ我のこととはこりゃたまらん」という川柳があります。死を考えないようにして生きるのが日本人です。神道の影響です。神道は死を「忌むべき」もの、「汚れ」として触れないようにしてきました。死から目をそむけて生きるその結果、人々は現世中心となり、刹那的、快楽的になるのです。「やれ打つな、ハエが手をする足をする」と小林一茶が詠ったように仏教は命の大切さを教えますが、人間も他の動物も同じ「いのち」と教えます。しかし、それでは牛や豚、鶏を殺してわたしたち人間の食用にするのに、何故、人は殺してはいけないのかが説明できません。キリスト教だけが、人は他の動物とは異なると教えます。それは人だけが神に「かたどり」「似せて」造られたからです(創一:二六、二七)。人だけが神の霊を心に宿すことができます(二:七)。人だけが永遠を思い、愛を求め、生きがいを求めるのです。ただ食べて、寝て、息をするだけでは生きているとはいえないのです。動物にとって死は単に偶然であり、必然ではあっても、人間にとって死はそれだけではありません。罪の結果が死であり、死は神の怒りだからです。死は人にとって神の前に立つ恐ろしい裁きとなるのです。
 神のことを考えずに自分のことだけを考えて生きることは良いことなのでしょうか。神の裁きである死を見つめて生きることはわたしたち人間にとって大切なことです。死を見つめることが生を見つめることであり、生を見つめることは死を見つめることでもあります。わたしたちは常に死に目を向けて生きなければなりません。アダムとエバはエデンの園で絶えず神の掟をみて生きていました(二:一六)。また使徒パウロもまた肉体にとげを与えられました(二コリント一二:七)。死を見つめることはわたしたちに神の存在を覚えさせ、正しく生きなければならないことを教えるのです。

 「だから、恐れるな」、それは固く神の「摂理信仰」に立つということでもあります。全ての出来事の背後には神がおられます(創三七~五〇章、ヨセフ物語)。この世の出来事は現象に過ぎません。「二羽の雀は一アサリオンで売られて」います。しかし神の「お許しがなければ、地に落ちることは」ないのです。わたしたちの「髪の毛までも一本残らず数えられて」います。これらのことは終わりの時に全てが明らかにされます。最後まで耐え忍ぶものは救われるのです。その時、主イエスを知らないと言う者は、主イエスもまたその人を知らないと言われます。神は生きておられます。主イエスを救い主と告白し、行動する者は永遠の命に導かれるのです。「だから、恐れるな」、人を恐れてはならないのです。神を恐れなければならないのです。