第66号
ある動物園の一角に覗き窓があり、そこに「世界で最も恐ろしい動物」という立て札が掲げてありました。覗くと人の姿が映りました。動物が人を殺すことはめったにありません。しかしながら、人類の歴史は戦争の歴史でもあります。どれほど多くの人が憎しみ合い、殺し合って来たか計り知れません。また、わたしたちは人を恐れて生きています。公式の席にネクタイを締めていなかったため、いたたまれない思いをした経験をお持ちの方がいるのではないでしょうか。皆と違った服装をしていただけでそのように冷や汗をかくくらいですから、人と違った考えを持ち、生きることは大変なことです。周りから浮き上がってしまうこともあるでしょう。そしてそれはキリスト教の信仰を持つ者にとってもいえます。せっかく教会に導かれて洗礼に至っても、そのことを知られないように生活する人もいます。信じることを心の問題とし、外側は普通の人と何ら変わらない生活をする人です。その結果、周りの人は長年一緒にいるにもかかわらず、その人がクリスチャンであることに気が付きません。
信仰を持っていても人に伝えない、つまり行いの伴わない信仰は死んだ信仰です(ヤコブ書、特に二:一七)。もし、人前で信仰を言い表すならば親しい友が去っていくかもしれません。職場では仕事がしにくくなり、昇進に差し障りが出るかもしれません。また、家族の反対に会うかも知れません。主イエスへの信仰を告白するためには人を恐れる自分の心を克服しなければなりません。正しい信仰には不利益や迫害といった踏み絵がしばしば伴うのです。
神のことを考えずに自分のことだけを考えて生きることは良いことなのでしょうか。神の裁きである死を見つめて生きることはわたしたち人間にとって大切なことです。死を見つめることが生を見つめることであり、生を見つめることは死を見つめることでもあります。わたしたちは常に死に目を向けて生きなければなりません。アダムとエバはエデンの園で絶えず神の掟をみて生きていました(二:一六)。また使徒パウロもまた肉体にとげを与えられました(二コリント一二:七)。死を見つめることはわたしたちに神の存在を覚えさせ、正しく生きなければならないことを教えるのです。