2005年12月18日日曜日

マタイ1章18~25節「その子はイエス」

第68号

最近続いて起こっている子供たちの痛ましい出来事は、わたしたちの心を暗くし、不安にさせます。今月の十日の川越市民クリスマスで、説教者の山岡磐牧師(日本基督教団初雁教会)は、大人が子供に話しかけることの出来ない社会が来るとは考えられなかった、とおっしゃっていました。わたしが小さい頃は、学校の帰りに寄り道をし、家に帰るのが遅くなることが度々でした。人を信用できない社会、それは神を信じることの出来ない社会でもあります。聖書には、終わりの日にはお互いの愛が冷えるとありますが、今日の社会を見ると、その時が近いのを知らされます(2テモテ三:一~三)。
 主イエスのお生まれになった時もまた暗い時代でした。イスラエルはローマの植民地でした。「ローマの平和」(Pax Romana)は武力で押さえつけられた平和でもありました。ユダヤを治めていたヘロデ大王もイドマヤ人で、しかも王の座を守るためなら何でもした人でした。そのような時代に主イエスはお生まれになったのです。

 ヨセフはまだ一緒にならない前に、婚約者マリアが身ごもったのを知りました。どれほど驚いたことでしょう。幾日も眠られぬ夜を過ごしたに違いありません。どうして、何故、といった問いがヨセフを苦しめたに相違ありません。婚約者に裏切られる、それは経験した人でなければ分からないかもしれません。マリアを人々の前に公にすることも出来ました。当時のユダヤでは婚約は、法的には結婚と見做されていました。告発すればマリアは裁かれ、その罪の故に死の判決が下されたでしょう。姦淫に対する裁きは今日では考えられないほど厳しかったのです。しかし、ヨセフはマリアを辱めず、命を救おうとしました。それは、生まれてくる子を自分の子と認めた上で、ひそかにマリアと離縁するということでした。「夫ヨセフは正しい人」とありますが、それは「やさしい人」、「思いやりがある人」の意です。しかし、離縁された身重のマリアはどうやって生きていくことが出来るのでしょうか。夫の、あるいは父や兄の経済的支えなしに生きていくことの出来なかった時代でした。それは今日にも言えるかもしれません。
 このように考えていたヨセフに夢の中で天使が現われ、生まれてくる子は聖霊によるものであり、神がその子の父である、それ故、恐れずマリアを妻としなさい、と言われました。
 ヨセフはこのように語る天使の言葉をさえぎって、聖霊によって身ごもるなんてそんな非科学的なことは信じられない、そのような女と結婚したくはない、と断っても世間的には充分正しい人であり得たのです。マリアと離縁し、他の人と結婚し、別の家庭を作ることも出来たのです。しかし、ヨセフは自分の考えを固辞せず、天使の言われたことを信じ、マリアを妻としたのです。

 ナザレの村を訪ねたことがありますが、丘の斜面に立てられた古い町でした。多分主イエスの頃とそれほど変わっていないのではないかと思われました。その時、顔を輝かせた少年イエスが弟や妹たちの手をとって走って来る姿が目に浮かびました。ヨセフとマリアの家庭は主イエスを中心に愛と信頼に満ちた家庭ではなかったでしょうか。ヨセフは主の御使いの言葉を聞いたときから、心の広い人に変えられていました。主イエスが一緒にいるということはそのようなことです。「インマヌエル」とは「主が共にいる」ということです。そして、イエスこそ、「自分の民を罪から救う」お方なのです。ヨセフはおそらく自分の本当の息子や娘よりも主イエスを愛したのではないでしょうか。主イエスが一二歳になった時の宮もうでの出来事がルカの福音書に記されています。主イエスがいなくなった時のヨセフの心配、そして見つかった時の安堵はどれほどのものであったでしょうか(二:四一~四八)。ヨセフは亡くなる時、主の御使いの言葉に従ってマリアと結婚したことを神に感謝したに違いありません。貧しく、苦労の多い生活であっても、主イエスが共にいてくださった生活は、満ち溢れるばかりの祝福に包まれたものだったからです。

 マリアは「聖霊」によって身ごもったということが二度繰り返されています(一八、二〇節)。主イエスはわたしたちの心にも宿られます。わたしたちの内に主イエスが誕生するなら主が共にいてくださる人生を送ることが出来るのです。それが「インマヌエル」です。主が一緒におられるので「わたしたちの罪は許されている」のです。人間の罪と悲惨さとは神から離れていることから生じます。
 この暗い時代に、一人でも多くの方が、わたしたちを罪から救って下さる主イエスを心に宿されるようにと祈ります。そして主が共にいて下さるというこの喜びを多くの人と共にクリスマスに共に分かち合いたいと思います。