2006年3月19日日曜日

マタイ15章32~16章12節「パン種に注意しなさい」

第71号

「パン種」はパンの中で急速に全体に広がり、膨らませ、食べ易くします。イスラエルにあって「ファリサイ派とサドカイ派の人々の教え」もそうでした。主イエスは彼らの「教え」、すなわち「パン種」に注意しなさい、と言われました。
 律法は二種類あります。一つは書かれた律法である聖書、その中でも特に「十戒」と律法書であるモーセの五書です。もう一つはファリサイ派の人々やサドカイ派の「言い伝え」です。「十戒」も「言い伝え」もいずれも大切なものとして厳格に守らなければなりませんでした。しかし、実際にはファリサイ派やサドカイ派の人々は「十戒」以上に彼らの「言い伝え」を大切にしました。例えば、十戒の第五戒には「父と母を敬え」とあります。「それなのに、あなたたちは言っている」と主イエスは言われました。「『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」(マルコ七:一一~一三)。
 神殿への捧げものは任意です。しかし、十戒に背くものは「呪われよ」、と言われ、また「死ななければならない」のです。どちらが大切かは明らかです。ファリサイ派やサドカイ派の人々の「言い伝え」は自分を他の人に対して宗教的に見せかけ、尚且つ、父と母への扶養の義務を怠り、自分の財産を不当に所持し続けることが出来たのです。十戒の第四番目にある安息日の戒めについても同じでした。主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べたとき、主イエスが病気を癒したとき、また癒された病人が床を持って歩いたときなど、自分たちの「言い伝え」を根拠に彼らは主イエスの言動を批判しました。それに対し、主イエスは安息日の主は誰なのですか、善いことをするのと悪いことをするのとどちらがよいのですかと彼らに反論しました。

 ファリサイ派とサドカイ派の人々は大勢の人たちが主イエスに従っているのを知って、エルサレムからガリラヤに人を派遣しました。主イエスが彼らの「言い伝え」を守っているかどうかを調べるためでした。もし、主イエスが「言い伝え」を守っているのであれば彼らの権威は保たれます。しかし、守っていないのであれば、彼らの権威や地位、名誉は脅かされることになります。「言い伝え」を守っていないのを知ると彼らは主イエスを殺そうと相談し始めました(一二:一四)。民衆もまた、ファリサイ派とサドカイ派の人たちの「言い伝え」を「十戒」より好んだのです。「コルバン」がよい例で、守るのが容易だったからに他なりません。ファリサイ派やサドカイ派の人たちに主イエスは「偽善者よ」と呼びかけました。常識的な考え方やこの世の知恵によって「書かれた律法」を骨抜きにしてしまったからです。そして彼らの「教え」を「パン種」と呼ばれ、その「教え」に注意しなさいと言われたのです。
 使徒時代の教会で起こったアナニアとサフィラの出来事は、わたしたちに神に偽ることは赦されないことを教えます。アナニアとサフィラは、自分たちの土地を売り、代金をごまかし、その一部を偽って使徒の前に置きました。その結果は死でした(使徒五:一~一一)。中世の教会は、献金すれば罪が赦されると免罪符を売りました。ルターの宗教改革は献金、すなわち「良い行いが人を救う」という教会の「パン種」(行為義認)を否定しました。

 十戒はイスラエルの民が約束の地であるカナンに入って作る「神の国」の憲法であり、倫理基準でした。同じ事は、この世を生きる「神の国の民」であるわたしたちキリスト者にも言えます。
 十戒の第六戒は「人を殺してはならない」です。罪人であるわたしたちは神によって救われました。そのわたしたちは人を殺すことは出来ないのです。「正義」のためなら「人を殺してもよい」のではなく「正義」のために「身を捧げる」ということです。たとえ正当防衛であっても人を殺すことはできません。
 この教えは、個人だけでなくその集合体である国家にも当てはまります。日本は戦争により多くの人命を失い、また広島と長崎には原爆が投下されました。日本の憲法第九条は平和国家として立つことを目的とし、他国との交戦権を否定しています。しかし、時代の流れと共に国家固有の権利としての自衛権を認めるようになりました。神から与えられた日本の使命は、非武装により世界平和に貢献することです。
 個人においても国家においても「人を殺してはならない」は人間的解釈を入れる余地のない神の戒めです。