第76号
マタイによる福音書二四章は小黙示録と呼ばれています。「黙示」とは黙していることが示されることであって「終末に関すること」です。聖書によればこの世の終わりは神によって決定されています。「この世」を創られた神が「この世」に終わりを来たらせるのです。
旧約聖書の「ノアの洪水」の物語には、神が古い世界を滅ぼされたのは「地が暴虐に満ちていたから」とあります(創世記六章)。神がソドムとゴモラの町を滅ぼされたのも同じ理由でした(創世記一八~一九章)。預言者サムエルは、隣国からの脅威に対抗するため王制を求めた民にこのように警告しました。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ…」る(サムエル記上八章一〇~一八節)。
王国はソロモン王の後、北王国と南王国に分裂しました。多くの王は神に代わって自ら国の主権者となり、神に罪を犯しました。神は北王国イスラエルをアッシリアに、南王国ユダをバビロニアに渡して滅ぼされました。「神が民を滅ぼされたのは民の罪の故」でした(列王記下一七、二四章)。
主イエスは紀元七〇年のエルサレムの滅亡と神殿の崩壊について預言し、「神の訪れてくださる時をわきまえなかった」彼らの罪の故であると言われました(ルカ一九:四四)。
神がこの天地を滅ぼすのはわたしたちの罪の故で、そのことが終末に起こることであるなら、わたしたちの平和への努力には一体どんな意味があるのでしょうか。将来、良い世界が訪れることを願って、わたしたちは平和のために努力するのではないでしょうか。
その八年後、一九四五年八月六日、原爆が広島に、九日には長崎にも投下され、十五日、日本は遂にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしました。中国東北戦争から太平洋戦争の十五年に渡る長い戦争により、三百万以上の人が死にました。広島と長崎は一瞬にして壊滅し、二十四万人と十二万二千人が亡くなりました。中国人、一千万人以上、他のアジアの国々の人々、一千万人以上が犠牲となりました。
わたしは絶対的平和主義の立場に立ちます。このことは隣国から侵略されないことを保証するものではありません。平和の戦いは忍耐と苦難、そして多くの命の犠牲を伴うものです。
主イエスは「神と人との和解」のためにご自身の命を捧げられました。それによってわたしたちは御国の住民とされました。それ故わたしたちも「人と人との和解」のために命を捧げることが求められていると思います。このようなわたしたちにとって、敗戦によって与えられた日本の平和憲法には特別な意味があると信じます。
「天地は滅びる」、それは平和のための努力が無に帰するのではなく、神の子たちに新しい天と新しい地が用意されているということです。