2006年12月17日日曜日

マタイ28章1~15節「あの方は復活された」

第80号

 マグダラのマリアともう一人のマリアは、週の初めの日の朝早く墓に行きました。すると地震が起こり、墓石が取り除かれ、天から降って来た天使から「恐れることはない。…あの方は、ここにはおられない。…復活なされたのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」と告げられました。彼女たちがこのことを弟子たちに知らせに行く途中、主イエスが現われ「おはよう」と言われました。彼女たちは主イエスの足を抱いてひれ伏しました。ギリシャ哲学では、肉体は滅んでも霊魂は生き続けると教えられています。しかし、復活の出来事はそのようなことではありません。もし、主イエスが霊であるなら足を抱くことは出来ません。主イエスは生きた身体を持って復活されたのです。
 弟子たちは彼女たちから主イエスが復活されたことを聞いたとき誰一人信じませんでした。信じない弟子たちの前に主イエスが現われた時、彼らは主イエスの亡霊が現われたと思いました。それに対し、主イエスは「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなた方に見えるとおり、わたしにはそれがある」と言われました(ルカ二四:三九)。弟子の一人、トマスはこのことを聞いてもなお信じようとはしませんでした。「あの方の手に、釘の跡を見、この指を針跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張りました。主イエスはそのトマスの前に立たれて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。
 主イエスはご自身の手足とわき腹の傷を弟子たちにお見せになっただけでなく、彼らと一緒に食事をされました。主イエスが霊であるなら焼いた魚を食べることはできません。復活された主イエスは弟子たちに神の国について教えられました。このようにして主イエスは四〇日にわたって五百人以上の弟子たちにご自身の復活の確かなことを示された後、天に上られたのです(使徒一:三、Ⅰコリ一五:六)。

 ペンテコステの日に聖霊を受けた弟子たちは大胆に主イエスの復活を証し始めました。ペトロは集まって来た人たちに説教しました。「(ダビデは)キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることはない』と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」。この日、回心した人は三千人ほどでした(使徒二)。
 パウロも「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、…」と言っております(Ⅰコリント一五:三以下)。
 このことは、主イエスが生前、何度も繰り返して弟子たちに教えられたことでした(マタイ一六:二一、他)。

 主イエスの「霊」を見たと弟子たちが証したのであれば信じることができるかもしれません。しかし、主イエスの復活は「生きた身体」を伴うものでした。そのため復活は最も信じられない出来事となりました。しかし、もしギリシャ哲学が教えるように霊魂の不滅を信じるのであれば、今の自分が連続して永遠に生きることになってしまいます。わたしたちのこの罪の性質がそのまま新しい天と新しい地を継ぐことになるのです。そうではなく、わたしたちの霊魂と身体が一度死んで滅ぼされ、そこから再び新しい霊魂と身体が創造されるのです。永遠の命にふさわしい罪のない心と永遠に生きるにふさわしい身体が新しく生まれるのです。この世と永遠との連続性はそこにはありません。
 同じことは主イエスを信じるときわたしたちに起こったことでした。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者なのである。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」。(口語訳・Ⅱコリ五:一七)。回心の時わたしたちの心に主イエスを信じる新しい心が与えられ、身体もまた永遠のいのちにあずかる希望を持つことができるように変えられます。
 七つの悪霊を主イエスによって追い出してもらったマグダラのマリアは、それまで罪の生活をしていたといわれています。そのような生活から贖われたのは主イエスと出会ったからでした。マリアは復活の主イエスに会って「おはよう」すなわち「喜びなさい」と言われました。復活の主イエスに出会うときわたしたちの人生もまた喜びに変えられるのです。「あの方は復活された」と証することができるようになるのです。