第81号
《新年礼拝》
ガラテヤの信徒への手紙は、キリスト者の自由の「マグナカルタ」(大憲章)です。主題は「主イエスを信じる信仰によって神に義とされる」という信仰義認です。ローマの信徒への手紙にも言えます。前者はローマの信徒への手紙の概要で、後者はガラテヤ書の解説と言ってもいいでしょう。いずれの書簡も使徒パウロが著者です。パウロは「よい行いで神の前に義とされる」、すなわち「自分の力で神の前を正しく生きる」行為義認、律法主義は信仰義認とは相容れません。「キリストの僕」であることと「律法を遵守」することとは両立しないと言います。パウロは「キリストの福音」とは、キリストが「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために捧げてくださった」ことだと言います。
「悪の世」とは、そこに住んでいる人間が悪いという意味です。ある所に盗賊団が住んでいると、人々は「あの場所は悪い」と言います。江戸時代、辻斬りをした人が捕まりますと、人々はその人の刀も人の血を吸ったと嫌いました。「この世」はあくまで「器」にすぎません。「器」である「この世」を良くするのも悪くするのも人です。
聖書は「人は必ず欺く」と言います(詩一一六:一一)また、「皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」と記されています(詩一四:三)。わたしたちの生まれつきの心のままでは善を行うことはできないのです。この世から離れ、一人で生活しても神の前に正しく生きることはできません。このようなわたしたちを救うために神は御子キリストをこの世にお遣わしになったとパウロはガラテヤの人々に教えたのです。
行為義認、律法主義は良い行いでもって神に認められようとします。神の救いを待つのではなく、自分から神に自分の義を主張するのです。しかし、律法で救われようとしても神が定めるその基準には到底到達することはできません。律法は自分の罪を自覚し、神のところにわたしたちを導き、連れて行くための養育係にすぎません。それ自体に救う力はないのです。
わたしたちは自分の律法による人間的な努力で神を見い出すことができません。むしろ、多くの場合、神と人に対し律法の知識と行為を誇るようになります。ファリサイ派の人たちは「律法を知らないこの群衆は呪われている」と言い(ヨハネ七:四九)。また「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈りました(ルカ一八:一一)。
わたし自身が罪から救われなければならない存在です。そのために主イエスは天の父から遣わされ、十字架の上でわたしたちの罪を贖われました。そして、三日目に復活され、わたしたちの初穂となられました。その恵みだけで充分なのです。