2007年1月21日日曜日

ガラテヤ書1章1~10節「キリストの福音」

第81号

《新年礼拝》 

 ガラテヤの信徒への手紙は、キリスト者の自由の「マグナカルタ」(大憲章)です。主題は「主イエスを信じる信仰によって神に義とされる」という信仰義認です。ローマの信徒への手紙にも言えます。前者はローマの信徒への手紙の概要で、後者はガラテヤ書の解説と言ってもいいでしょう。いずれの書簡も使徒パウロが著者です。パウロは「よい行いで神の前に義とされる」、すなわち「自分の力で神の前を正しく生きる」行為義認、律法主義は信仰義認とは相容れません。「キリストの僕」であることと「律法を遵守」することとは両立しないと言います。
 パウロは「キリストの福音」とは、キリストが「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために捧げてくださった」ことだと言います。
 「悪の世」とは、そこに住んでいる人間が悪いという意味です。ある所に盗賊団が住んでいると、人々は「あの場所は悪い」と言います。江戸時代、辻斬りをした人が捕まりますと、人々はその人の刀も人の血を吸ったと嫌いました。「この世」はあくまで「器」にすぎません。「器」である「この世」を良くするのも悪くするのも人です。
 聖書は「人は必ず欺く」と言います(詩一一六:一一)また、「皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」と記されています(詩一四:三)。わたしたちの生まれつきの心のままでは善を行うことはできないのです。この世から離れ、一人で生活しても神の前に正しく生きることはできません。このようなわたしたちを救うために神は御子キリストをこの世にお遣わしになったとパウロはガラテヤの人々に教えたのです。

 パウロの後からガラテヤにやって来た偽使徒(ユダヤ主義者)たちは、パウロの使徒職を否定しました。パウロは主イエスが選ばれた十二弟子の一人ではなく、生前の主イエスから直接教えを受けた訳でもなかったからです。彼らは、自分たちはエルサレムの教会から遣わされのだと言い、その権威を背景に、パウロの教えは救いには不十分だと主張したのです。十二弟子たちは皆、律法を守って正しく生活していたので、偽使徒たちもまた主イエスを信じるだけでなく、彼らに倣って生活するようにと教えました。
 律法の知識は聖書を学ぶことによって身に付きますが、「キリストの福音」は、主イエスとの出会いが必要です。パウロはダマスコに行く途中、それまで彼が迫害していた主イエスに出会いました(使徒九:三~四)。人の罪を赦すことがおできになるのは神お一人であり、それが十字架の出来事であること、三日目に甦られ、天に上られ、天の父の右に座し、信じる者に約束の聖霊を送られたのを直接主イエスから示されたのです。
 行為義認、律法主義は良い行いでもって神に認められようとします。神の救いを待つのではなく、自分から神に自分の義を主張するのです。しかし、律法で救われようとしても神が定めるその基準には到底到達することはできません。律法は自分の罪を自覚し、神のところにわたしたちを導き、連れて行くための養育係にすぎません。それ自体に救う力はないのです。
 わたしたちは自分の律法による人間的な努力で神を見い出すことができません。むしろ、多くの場合、神と人に対し律法の知識と行為を誇るようになります。ファリサイ派の人たちは「律法を知らないこの群衆は呪われている」と言い(ヨハネ七:四九)。また「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈りました(ルカ一八:一一)。

 使徒たちは何故、律法を守っていたのでしょうか。彼らはユダヤ人に遣わされたからでした。パウロは異邦人に遣わされました。彼らはユダヤ人にはユダヤ人のようになり、異邦人には異邦人のようになったのです。使徒たちは自分の良い行いで救われたとは思っていませんでした。
 パウロが偽使徒たちを「呪われるが良い」とまで言うのは、自分たちの主義主張のために十二使徒たちを利用し、主イエスの救いのみならず、律法の行いによる救いを教えたからです。彼らは最悪の敵である「わたし自身」から救われる機会をガラテヤの人々から奪っていたからです。神に対するわずかばかりの良い行いで自らの価値を神と人に認めさせ、自分は救いに価するとするなら「キリストの福音」を歪曲し、神に敵対することになります。
 わたし自身が罪から救われなければならない存在です。そのために主イエスは天の父から遣わされ、十字架の上でわたしたちの罪を贖われました。そして、三日目に復活され、わたしたちの初穂となられました。その恵みだけで充分なのです。