2007年2月18日日曜日

ガラテヤ書3章1~14節「アブラハムの子」

第82号

 アダムとエバによる人類の堕罪に対する救済の歴史はアブラハムからはじまりました。神はアブラハムに現われ、彼に「土地」と「子孫」が与えられ、世界の民の「祝福」の源になると約束されました。アブラハムとサラには子がありませんでしたので、サラは七十歳を過ぎると自分の奴隷であるエジプトの女ハガルをアブラハムに与えイシマエルを得ました。奴隷の子は主人の子でもあったからです。しかし、神の約束の成就は奴隷の女によってではなく、あくまでも自由な女であるサラによってでした。アブラハムが百歳の時、九十歳のサラの体に命が宿りました。それがイサクでした。
 イサクが成長すると、神はアブラハムにイサクを焼き尽くす献げ物とするよう命じました。その声を聞くとアブラハムは旅立ち、三日後、モリアの地で祭壇を築きイサクを捧げようとしました。その時、神は天から呼びかけ、イサクをアブラハムの手に戻されました。アブラハムはイサクに代わって雄羊を献げました。それは死からの復活でした(ヘブル一一:一九)。モリアの地は、ユダヤ人たちの伝承によればソロモンが神殿を建てた場所です(歴代三:一)。アブラハムから二千年後、そこで神の子羊である主イエスが十字架につけられました。

 神の約束はアブラハムからイサクに、イサクからヤコブに、ヤコブからイスラエルの十二人の子に引き継がれました。ヤコブの子ヨセフは兄弟たちによってエジプトに売られて奴隷となりましたが、神の助けによりエジプトの王ファラオの宰相となりました。飢饉が世界に臨んだ時、父ヤコブの家族をエジプトに呼び寄せました。そこで四百三十年間に二百万から三百万人という大きな民となりました。その間、彼らはエジプト人の奴隷となり使役に苦しむようになりました。
 神はモーセを遣わし、エジプトからイスラエルの民を救い出されました。モーセに率いられた民は紅海を渡り、一ヵ月後にシナイ山で神から十戒を授けられました。荒野での四十年の放浪の後、ヨルダン川を渡って約束の地、カナンに入りました。
 ヨシュアは神がアブラハムに約束した「土地」と「子孫」が彼らに与えられたのを知り、民と契約を結びました(ヨシュア記二四章)。神を信じ従う決心を民としたのです。ここにヤハウェを信じ、救いの歴史を共有する十二の部族共同体が生まれました。エジプトで奴隷であった民が神により自由の民となったことは、死から命に移されたことであり、新しい時代のはじまりでした。
 このような神との契約にもかかわらず、人々はすぐに土着の民の影響を受け、バアルやアシュタロトなどのカナンの神々を信じるようになりました。これらの神は農耕の神で豊穣の神でした。また、彼らは神による直接の支配ではなく、他の民と同じように王制を求めるようになりました。神に従ったダビデ王のとき国は発展しましたが、ソロモン王の後、国は二つに分裂しました。王たちと民による罪の結果、北王国イスラエルはアッシリアに、南王国ユダはバビロニアによって滅ぼされました。約束の地を追われ、捕囚となったユダの民はペルシャ王キュロスによって帰還が赦されましたが、世界に散ったイスラエルの民はエルサレム神殿を中心とする祭儀を守る神の民ではなく、律法を守る神の民として生きるようになりました。

 時が満ち、天の父はイスラエルの民にご自身の独り子主イエスを送られました。しかし、律法を守っていると自負していた民にとって、神と人への愛を説く主イエスは躓きの石となりました。主イエスを神の子と信じたのは弟子や罪人、病人など僅かでした。人々は主イエスが自らを神とし、神を冒涜しているとして十字架につけて殺しました。しかし、三日目に復活され、天の父の身元に行かれ、そこから約束の聖霊を弟子たちに注がれました。この弟子たちにより異邦人にも福音が宣べ伝えられ、彼らも聖霊を受けました。その数は空の星、地の砂のように増え、わたしたちに至っています。

 パウロは神がアブラハムに約束された「子孫」とは主イエスのことだと言います。主イエスは割礼の人たちによって殺されましたが、天の父は主イエスを甦らせました。その死と復活によって新しい民が生まれました。心に主イエスの霊という割礼を受けた民です。この霊の故にわたしたちもまたキリストを頭とする体の一部とされ、「子孫」とされるのです。
 アブラハムに現われ、語られた神は主イエスです。アブラハムへの約束が歴史の中で成就したように、主イエスのわたしたちへの約束も歴史を越えて必ず成就します。「土地」は天にある新しいエルサレムです。わたしたちはそこで永遠に生きるのです。この約束を信じる世界の民によってアブラハムは「祝福」の源となったのです。