2007年4月15日日曜日

ヨハネ11章1~44節「もし信じるなら」

第84号

〈イースター礼拝〉

 ベタニアはオリーブ山の東山麓にあり、エルサレムから三キロ弱、エリコから都に至る途上にありました。その村に住む姉弟マルタとマリアとラザロは主イエスに愛されていました。
 ラザロが病気になった時、すぐにマルタとマリアは主イエスに使いを出しました。主イエスと弟子たちはユダヤ人からの迫害を避け、ヨルダン川の向こう側にいたのです。「主よ、すぐに来てラザロを助けてください」、との必死の願いにも関わらずラザロは死にました。それは突然の死でした。
 葬儀の手配、弔問客の接待とマルタは忙しかったことでしょう。妹のマリアは泣いてばかりいました。しかし、夜になると、マルタもまた「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」とマリアと一緒に泣いたに違いありません。それでもラザロを墓に埋葬した直後は、主イエスはすぐ来てくださり甦らせてくださる、と固く信じていました。しかし、二日経ち、三日経つと、もう朽ちてしまっている、と思うようになり、絶望し、「主よ、なぜわたしたちをお見捨てになられたのですか」と不平をつぶやいたに違いありません。主イエスが到着されたのは、ラザロが墓に入れられて四日後のことでした。
 マリアは主イエスの足もとにひれ伏し、泣きました。ユダヤ人たちも泣いていました。死は愛する者たちとの永久の別れです。「どんなにラザロを愛していたことか」。死はすべてを過去形にしてしまいます。その現実に直面し、わたしたちは涙を流すのです。主イエスもまた、心に憤りを覚え、興奮し、涙を流されました。死は罪の結果です。サタンが人を誘惑し罪に陥れたのです。わたしたちもまた「主よ、来て、ご覧ください、死が支配しているこの現実を」と叫ばずにはいられません。

 主イエスはゲッセマネの園で、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と弟子たちに告げられました。それ故、ラザロを失ったマルタとマリアの悲しみはよくご存知でした。同様に、わたしたちの苦しみも悲しみもご存知なのです。
 世の人に臨む苦難は、例外なくわたしたちキリスト者にも臨みます。主イエスを信じることによってこの世のすべての問題が解決し、幸福に過ごすことができるという訳ではありません。にも関わらず、わたしたちと主イエスを信じない者との間には大きな違いがあります。それは主イエスの十字架と復活を信じることによってもたらされるものです。
 主イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、息を引き取られました。「神から見捨てられる」ということほど大きな悲しみはありません。わたしたちが経験するすべての苦しみ、孤独、死の恐れの根源はここにあります。まことに神である主イエスは十字架でわたしたちの罪を負われたのです。しかし、天の父は独り子である主イエスをそのまま墓に放置されませんでした。
 マグダラのマリアは安息日の次の日、すなわち葬られてから三日目の朝早く墓に行き、泣いていました。そのとき、主イエスが現れ、マリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」といわれました。わたしたちの耳には「マリアよ、わたしは復活したのだ。だからもう泣くことはない」と聞こえます。主イエスもラザロの墓で泣かれたからです。
 わたしたちは主イエスの十字架と復活から、苦難と絶望の後に栄光が待っていたのを知りました。マルタは絶望の底にあるとき、主イエスから「あなたの兄弟は復活する」と言われました。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えましたが、ユダヤ人であればこの正統的な信仰告白はだれでもしたことでしょう。主イエスを十字架につけたファリサイ派の人々もそのように答えるでしょうし、わたしたちも同じです。しかし、主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われるのです。主イエスは死んだラザロを甦らせました。二人の姉妹の絶望は思いもかけない形で喜びに変わりました。

 主イエスを信じるなら、わたしたちに肉体の死はもはや意味を成しません。霊的な死から復活した経験は、肉体の死もまた新しい命の始めと信じられるからです。
 わたしたちの心は石で塞がれたままになってはいないでしょうか。主イエスは「その石を取りのけ、わたしのもとに、出て来なさい。今、生きているわたしを信じなさい。もし信じるなら、神の栄光を見られると、言っておいたではないか」と言われるのです。