パウロはフィリピの人たちに「わたしの愛する人たち、…従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧めます。このことは「救われていないあなた方が救われるように」ということでも、「救われているあなた方が、その救いから漏れることのないように」ということでもありません。「あなたがたの救いは確かなこと」だからです。
わたしたちは、救われるためには自分の努力や決心が大切と考えがちです。教会に行き、聖書を読み、祈ることで、また、自分は正直で、素直で、謙遜だからとか、何らかの「取り柄」があったからと考えるのです。確かに、わたしたちは喉が渇けば水を飲むこともできますし、人生がいやになれば窓から飛び降りることだってできます。しかし、救いはそのようなことではありません。
わたしたちは罪という「泥沼」の中に生きているのです。右足を上げようとすれば左足が沈み、左足を挙げようとすれば右足が沈みます。その中で立ったり座ったり、手、足を動かしたりしているのです。それは自由ではありません。泥沼から出ることができないからです。わたしたちは神によってのみ泥沼から救われ、しかも岸に上がってはじめて自由になったことを知るのです。罪からの救いは人間の意志や努力ではできません。主イエスに出会って、初めて、自分が救われたのは神の選びと恵みであったことに気がつきます。救いは、神がその全ての主権を握っているのです。
この世で自分がキリスト者であることを告白するなら、仕事に支障をきたしたり、生活していく上で困難なことが起こるかもしれません。わたしたちは時が良くても悪くても主イエスを証しなければなりません。その結果として受ける損失をあらかじめ覚悟しておかなければなりません。主イエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われました(ヨハネ六:五三、五四)。主イエスはわたしたちを、天からの食べ物、マナで養われるのです。
キリストに従うことにより自分の好きな生き方ができなくなるかもしれません。たとえそうであっても、それに代わる霊的な喜びが与えられます。棄てるものより得るものの方がはるかに大きいのです。
わたしたちは初めから主イエスに従順に生きることはできません。主イエスに反抗する古い自分に死んで、新しい自分に変わらなければなりません。野生の馬は乗り手を落とそうと暴れますが、調教されることによって従順な馬に生まれ変わります。主イエスに従うことにより、神の国の民にふさわしくされるのです。