2007年11月18日日曜日

コロサイ書1章9-23節「御子は最初の者」

第91号

 肉体の死によってわたしたちの「いのち」は終わるのでしょうか。それとも復活はあるのでしょうか。古今東西多くの人が抱いて来た疑問です。科学では証明できませんし、自分は死から甦った、復活はあると言われても信じられないことです。
 主イエスの時代、ファリサイ派の人たちや律法学者たち、また一般の多くの人たちは復活を信じていました。しかし、サドカイ派の人たちは信じていませんでした。天使や霊の存在も信ぜず、魂は肉体と共に滅びると信じ、未来の応報も否定していました。彼らはモーセ五書のみ信じていたからです。
 サドカイ派の人たちはダビデ時代の祭司サドクの子孫と言われ、祭司長を代々務め、祭司の職を独占して来ました。最高法院の議員を多く占め、神殿を拠点に政治的実権を握り、数は少なくても社会の指導的役割を担っていました。使徒言行録には、パウロが主イエスは復活したと宣べ伝えたため、最高法院で弁明を求められた出来事が書かれています(二二:三〇~二三:一一)。パウロは議員がファリサイ派とサドカイ派の人々だったので、彼らの教義上の違いである「復活はある」、「ない」の問題に議論を転換させてしまいました。

 主イエスは愛するマルタとマリアの弟ラザロが死んだとき、マルタに「あなたの兄弟は復活する」と言われましたが、それに対するマルタの答えは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」でした。それが当時の人々の復活についての一般的な考えでした。ですから「その石を取りのけなさい」と主イエスが言われると、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と答えたのです(ヨハネ一一:一~四四)。主イエスはラザロを復活させました。それは御自身が「いのち」であり、死者を甦らせるお方だからです。マルタだけでなく弟子たちもまた主イエスがそのようなメシアであるとは考えていませんでした。
 カイザリア・フィリピに行った後、主イエスは弟子たちに繰返し自分はエルサレムに行き、苦難を受け十字架につけられ、三日目に復活すると教えました。弟子たちは、主イエスはエルサレムで神の国を樹立すると信じ、その暁には自分たちも主イエスと共に神の国を支配すると考えていたので、主イエスの言葉の意味を理解することはできずにいました。彼らは主イエスが大祭司たちに捕らえられると、見捨てて逃げてしまいました。主イエスは一人、十字架につけられ、死んで墓に葬られました。三日後、主イエスは前もって言われていたとおり復活されましたが、弟子たちは誰も信じませんでした。彼らが信じたのは復活した主イエスと出会ったからです。そして雲に包まれ天に昇るのを見ました。ペンテコステのとき約束の聖霊を受けて彼らははじめて伝道に立ち上がり、自らを「主の復活の証人」と呼んだのです(ヨハネ二〇:二八)。

わたしたちの信仰は「主は復活された」という事実にかかっています。主イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました(マタイ一六:二四)。その行き着く先が十字架の死で終わるなら誰も主イエスに従うことはできません。それは呪いの死に他ならないからです。しかし、主イエスは復活されました。それによって、主イエスはご自分の罪のない身体によってわたしたちの罪を確かに贖われたこと、また、わたしたちも復活することを示されました。十字架は命への道となりました。主イエスは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われるのです(二五、二六)。
 主イエスは十字架に渡される前夜、弟子たちの足を洗われ、それが神の国であると教えられました。弟子たちの理解する神の国は、ローマの頸木からイスラエルを解放することでした。主自らが人々の上に君臨すると思っていたのでした。そのため、主イエスを理解することができませんでした。
 そのような彼らに、主イエスは十字架の上から、「父よ彼らをお許しください、彼らは何をしているのか分からないのです」と言われました。主イエスは神であるにもかかわらず最も弱い者となりました。そして謙虚な者、愛の人としての生涯を全うされました。それ故、天の父は御子を復活させられたのです。「御子は最初の者」となり、わたしたちの初穂となられました。
 復活された主イエスは、今、生きておられ、わたしたちと交わりを持つことがおできになるのです。主イエスを信じる「神の国」の民はペンテコステ以降、教会としてこの世に実現しました。教会は新しい天と新しい地のこの世での先取りです。わたしたちの国籍は天にあるのです。