2008年3月16日日曜日

ヨハネ13勝1-20節「あなたがしたこと」

第95号

 過越祭は、今日の暦で三月下旬から四月の中旬にあたるユダヤ暦のニサン月の一五日から二二日までの一週間でした。種なしパンの祭りとも呼ばれました。一四日の午後、神殿で屠られた羊を各家庭で焼き、その晩食べました。ユダヤでは日没と共に新しい日がはじまったので、日付が一五日に変わりました。
 主イエスはこの食事を弟子たちと一緒にとられましたが、共観福音書と違ってヨハネによる福音書ではその祭りの「前のこと」となっています。主イエスは、「食事の席から立ち上がって上着を脱」いで、弟子たちの足を洗いはじめました。洗足についてはヨハネによる福音書だけに記載されています。そして「弟子たちの足を洗ってしまうと上着を着て、再び席に着」かれました。主イエスの洗足は「上着」で括弧として囲っています。
 「上着」、「衣」は聖書では特別な意味があります。アダムとエバは罪を犯した後、「裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うもの」にしましたが、神はその葉に代え「皮の衣を作って着せられ」ました(創世記二、三章)。ヨセフ物語では、ヤコブはヨセフに「裾の長い晴れ着を作」りましたが、兄たちはこの「晴れ着をはぎ取り」、「雄山羊を殺してその血に着物を浸し」、それを「父のもとへ送り届け」ました(三七章)。福音書には、ガリラヤ湖で漁をしていたシモン・ペトロは、復活された主イエスのところに行こうと「上着をまとって湖に飛び込んだ」とあります(ヨハネ二一:七)。ガラテヤ書には「あなたがたは皆、キリストを着ている」とあり(三:二七)、黙示録には「あなたがたは裸の者であることが分かっていない」、「裸の恥をさらさないように」、「勝利を得る者は…白い衣を着せられる」などと書かれています(三:五、一七、一八)。
 食事も聖書では霊的な交わりの意味でしばしば用いられます。このようなことからわたしたちは、主イエスは天で父と完全な充足にあったこと、そこから立ち上がり、神の栄光、権威、力を棄てて人となってこの世に来られたこと、その目的は、わたしたちの足を洗うためであったことが分かります。

 足を洗うのは奴隷の仕事でした。しかも異邦人奴隷にだけ求められているものでした。それを彼らの主であるイエスが弟子たちにしたのです。彼らはさぞかし驚いたことでしょう。ペトロのところに来ると彼は、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言いました。わたしの足を洗うにはおよびません。あなたのしていることは良く分かりました、という意味でした。
 他の弟子たちも同じですが、そのようにペトロが言ったのは、主イエスの宣べ伝えた神の国はこの地上に実現すると信じていたからです。メシアである主イエスは、イスラエルをローマ帝国の頸木から開放し、エルサレムにご自身の国を樹立され、さらにこの王国は近隣諸国から全世界に広がると信じていたのです。彼らの関心は、その暁には自分たちの内、誰が一番高い地位に着くのかというものでした(マタイ二〇:二〇~二八)。弟子たちは主イエスの洗足をこの観点からのみ理解し、自分たちに神と人に仕えるということはどういうことかを教えたものと思い込んでいました。
 しかし、主イエスはペトロに「わたしがしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。主イエスの洗足は、もし「人に仕える」ことを教えるだけなら、一人の弟子の足を洗い、「皆もこのようにしなさい」と言えばそれで十分でした。

 洗足の本当の意味が分かるようになるためには、主イエスの十字架と復活、そしてペンテコステの出来事を待たなければなりませんでした。主イエスは「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」と言われましたが、十字架と復活は、神ご自身が人となってこの世にこられたことを示しています。その目的は「神の国」を伝えるためで、主イエスの再臨の時、「この世」は「新しい天と新しい地」に取って代わること、それまで教会がこの世に「神の国」として現在するのです。
 十字架はわたしたちの罪を贖うものです。わたしたちがこの「神の国」の民となるためには少しの罪があってはならないのです。主イエスの復活はわたしたちも復活することを教えています。主イエスが弟子たちにしたことは十字架で弟子たちの命を贖うことで、それが洗足でした。このことに目が開かれるなら、わたしたちもまた主イエスと同じように、「神の国」のためにこの世に遣わされた者となります。それが隣人への洗足で、わたしたちが御国に入る前に「あなたがたにしたこと」になるのです。

2008年2月17日日曜日

コロサイ書4章7-18節「熱心に祈っています」

第94号

  
パウロはこの書簡の結びの中で「あなた方の一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」と書いています。
 パウロは第三次宣教旅行で三年間エフェソに滞在しました。パウロの伝道の特徴は大都市を中心に行い、その教会で育った人たちを周囲の町々に遣わすというものでした。エパフラスもその一人でした。エフェソにいた彼はパウロによって福音に接し、故郷コロサイに戻って伝道をはじめました(一:七)。
 しかし、彼の教会に自分が救われた福音とは異なった教えが入って来ました。彼はこの問題を解決するためローマの獄にいたパウロに会いに行きました。パウロは彼の話を聞いてこの手紙を書きティキコとオネシモに託しました。

  イスラエルの王ダビデも祈りの人でした。「ダビデはその子のために神に願い求め、断食」しました(サムエル下一二:一六)。「その子」とはウリヤの妻バト・シェバとの間に出来た「ダビデの子」で、ダビデは自分の犯した罪を覆い隠すために彼女の夫を殺しました。ダビデは地面に横たわり、その子が助かるようにと祈り続けましたが、七日後に死にました。
 パウロも自分の「身に一つのとげ」が与えられたとき、そのとげをとってくださるようにと「三度主に願いました」(二コリ一二:七)。しかし、主イエスはその祈りに応えられませんでした。
 主イエスご自身、ゲッセマネの園で「この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました(マルコ一四:三六)。「汗が血の滴るように地面に落ちた」激しい祈りに、天の父は応えてはくださいませんでした(ルカ二二:四四)。
 祈りは時としてわたしたちがどれほど熱心に祈ったからといって聞き届けられるとは限りません。わたしたちが祈っても祈らなくても神の御心がなされるとするなら、祈ることの意味はどこにあるのでしょうか。祈るより、どのようなことが起こっても、それを主の御心として受け止めることができますようにと、祈ったほうがいいのかも知れません。
 しかし、主イエスは弟子たちに「目を覚まして祈っていなさい」と言われました。彼らは主イエスが祈っている時、寝ていたからです。わたしたちも祈らないのであれば、主イエスから同じ叱責を受けるのではないでしょうか。
 ダビデは祈りによって、「その子」が自分の罪の身代わりになったことを受け入れました。主は「その子」によってダビデとバト・シェバを生かされたのです。「バト・シェバは(再び)男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付け」ました。パウロの肉体の「とげ」は、彼に啓示された事が余りにもすばらしかったため「思い上がることのない」ためでした。主イエスの祈りも「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心がなされますように」と続きました(マタイ二六:四二)。
 多くの人は、「わたしは配偶者のため、子供のために、隣人のために祈っている」と言われるかもしれません。しかし、それが単に、彼らが救われれば嬉しい、一緒に教会に行ける、人生の目標、価値観を共有できるというだけであるなら、このような祈りから神中心の祈りに変えられる必要があります。わたしたちは皆、ダビデと同じような罪を犯しながら、自分では気が付くことがありません。そのため主イエスの十字架の意味が分かりません。「ダビデの子」である主イエスだけが罪の結果である神の怒りからわたしたちを救うことが出来るのです(マタイ一:一)。

 エパフラスの祈りは対象が明確でした。コロサイの教会の人たち、そしてラオデキアとヒエラポリスの人々のためでした。そして何を求めて祈っているのかも明確でした。彼らが「完全な者」となるようにということでした。主イエスの血潮だけがわたしたちの罪を清め裁きの日に「完全な者」として御前に立つことが出来るようにするのです。エパフラスはまた「神の御心を全て確信しているように」と祈りました。パウロがこの書簡で解き明かした「神の永遠の計画」を知ることです。それは主イエスを知るように、ということです。主イエスに無尽蔵の富、永遠の命が隠されているからです。
 ダビデの祈りも、パウロの祈りも、「神の秘められた計画」を知るという目的を達成しています。その意味において、かなえられない祈りはありません。わたしたちの祈りも全てかなえられるのです。ですから絶えず目覚めていて、熱心に祈らなければなりません。

 

2008年1月20日日曜日

コリント二5章16-21節「新しく創造された者」

第93号
  年頭のテレビや新聞では環境問題が多く取り上げられていました。課題は、地球の温暖化を防ぐために、どのようにして二酸化炭素の排出量を抑えたらよいのかということです。中国は二〇〇七年には、アメリカを抜いて世界最大の二酸化炭素排出国となるようです。中国とインドが二〇三〇年までには増加する排出量の五十六%を占めるといわれています。両国は「地球温暖化は先進国が招いている問題であって、われわれが二酸化炭素排出量の規制を受けることも、これによって発展が制約されることもない」という立場です。中国の一人当たりの排出量は先進国の約三分の一です。インドに至っては十一分の一の量に過ぎません。インドでは一日一ドル以下で暮らす貧困層は三億人、電気のない生活をしている人は六億人といわれます。中国の貧困層は一億三千万人だそうです。先進国は、自分たちと同じような生活水準を目指しているこれらの発展途上国の経済成長を抑えることはできません。
 温暖化や大気汚染といった環境破壊のため、わたしたち人間が地球に生存できなくなる日が遠からず来るといわれています。しかも少しずつ来るというのではなく、突然、その限界に達し、後戻りできなくなるといわれています。

 聖書もまた、この世の終わりの日が来ることを告げます。それは環境破壊によるものではなく、主イエスの再臨によってです。神は「その日」を定めておられます。わたしたちにとって「神との和解」がなされているかどうかが問われる日です。「神との和解」がなされている人にとっては救いの日となり、そうでない人にとっては裁きの日となるからです。
 わたしたち人間は生まれつき神に敵対して歩んでいます。その思考、判断、行動、いずれも自己中心で自分を神としているからです。それ故、自分以外の神を信じることは出来ません。自分以外の神に従うことは、自己を否定することに他なりません。真実の神に従うなら、今までの生活や贅沢な暮らしと決別し、最も大切と思っているものですら捧げることが求められるかも知れないからです。
 主イエスに従った十二弟子たちもまた、自分中心の罪から逃れることは出来ませんでした。主イエスと共に「神の国」を支配することを夢見ていたからです。そのため自分たちの思いがかなわぬと知るや、主イエスを見捨ててしまいました。わたしたちもまた同じように、主イエスに自分を捧げるのではなく、主イエスを自分に仕えさせようとします。
 このようなわたしたちが本当の意味で救われたのは、聖霊によって神である主イエスの力を認め、その前にへりくだるということが起こったからに他なりません。神との和解は、自らを神としていたその罪を認め、主イエスに全てを委ねて従う決心をした時にもたらされます。

 今日、江戸時代の生活が見直されています。経済成長率がゼロの時代でした。生活必需品のほとんどは生涯、いや二代、三代に渡って使っていました。また農作物などの生産も自然のサイクルを最大限利用していました。庶民の間にも寺小屋教育は広まり、多くの人が読み書きそろばんが出来るようになりました。平和な時が続き文化も発展しました。
 もちろん問題も多くあったことでしょう。しかし、環境問題に直面するわたしたちの参考になる生き方がそこにはありました。しかし、そうであっても、その時代に戻ることは不可能です。そうするには、わたしたちは今享受してる便利な生活や、自分の持っているものを捨てることが求められるからです。
 「神との和解」は、わたしたちに神の霊と共に新しい命をもたらしました。それはわたしたちがこの世ではなく、永遠の命に生きるようにされるということでもあります。その結果、この世で持っている最も大切なものですら人に分け与えることが出来るようになるのです。マザーテレサはインドの貧しい人のために自分の生涯を捧げました。内村鑑三は戦争に突き進むかつての日本にあって命をかけて非戦論を唱えました。
 自己中心であるわたしたちには、神のため、また人のために自分を犠牲にする力が生まれつき備わっているというのではありません。「神との和解」によって私たちの内に与えられた聖霊によって変えられ、「新しく創造された者」となるのです。
 「新しく創造された者」には、「神との和解」の務めをなす使命が与えられます。人を恐れず福音を語るなら、必ず実を結ぶのです。環境問題などによって、人類の生存の危機が叫ばれているこの時代は、神の国の福音を一人でも多くの人に語ることの出来る良い機会をわたしたちに提供しているのではないでしょうか。