2008年2月17日日曜日

コロサイ書4章7-18節「熱心に祈っています」

第94号

  
パウロはこの書簡の結びの中で「あなた方の一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」と書いています。
 パウロは第三次宣教旅行で三年間エフェソに滞在しました。パウロの伝道の特徴は大都市を中心に行い、その教会で育った人たちを周囲の町々に遣わすというものでした。エパフラスもその一人でした。エフェソにいた彼はパウロによって福音に接し、故郷コロサイに戻って伝道をはじめました(一:七)。
 しかし、彼の教会に自分が救われた福音とは異なった教えが入って来ました。彼はこの問題を解決するためローマの獄にいたパウロに会いに行きました。パウロは彼の話を聞いてこの手紙を書きティキコとオネシモに託しました。

  イスラエルの王ダビデも祈りの人でした。「ダビデはその子のために神に願い求め、断食」しました(サムエル下一二:一六)。「その子」とはウリヤの妻バト・シェバとの間に出来た「ダビデの子」で、ダビデは自分の犯した罪を覆い隠すために彼女の夫を殺しました。ダビデは地面に横たわり、その子が助かるようにと祈り続けましたが、七日後に死にました。
 パウロも自分の「身に一つのとげ」が与えられたとき、そのとげをとってくださるようにと「三度主に願いました」(二コリ一二:七)。しかし、主イエスはその祈りに応えられませんでした。
 主イエスご自身、ゲッセマネの園で「この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました(マルコ一四:三六)。「汗が血の滴るように地面に落ちた」激しい祈りに、天の父は応えてはくださいませんでした(ルカ二二:四四)。
 祈りは時としてわたしたちがどれほど熱心に祈ったからといって聞き届けられるとは限りません。わたしたちが祈っても祈らなくても神の御心がなされるとするなら、祈ることの意味はどこにあるのでしょうか。祈るより、どのようなことが起こっても、それを主の御心として受け止めることができますようにと、祈ったほうがいいのかも知れません。
 しかし、主イエスは弟子たちに「目を覚まして祈っていなさい」と言われました。彼らは主イエスが祈っている時、寝ていたからです。わたしたちも祈らないのであれば、主イエスから同じ叱責を受けるのではないでしょうか。
 ダビデは祈りによって、「その子」が自分の罪の身代わりになったことを受け入れました。主は「その子」によってダビデとバト・シェバを生かされたのです。「バト・シェバは(再び)男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付け」ました。パウロの肉体の「とげ」は、彼に啓示された事が余りにもすばらしかったため「思い上がることのない」ためでした。主イエスの祈りも「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心がなされますように」と続きました(マタイ二六:四二)。
 多くの人は、「わたしは配偶者のため、子供のために、隣人のために祈っている」と言われるかもしれません。しかし、それが単に、彼らが救われれば嬉しい、一緒に教会に行ける、人生の目標、価値観を共有できるというだけであるなら、このような祈りから神中心の祈りに変えられる必要があります。わたしたちは皆、ダビデと同じような罪を犯しながら、自分では気が付くことがありません。そのため主イエスの十字架の意味が分かりません。「ダビデの子」である主イエスだけが罪の結果である神の怒りからわたしたちを救うことが出来るのです(マタイ一:一)。

 エパフラスの祈りは対象が明確でした。コロサイの教会の人たち、そしてラオデキアとヒエラポリスの人々のためでした。そして何を求めて祈っているのかも明確でした。彼らが「完全な者」となるようにということでした。主イエスの血潮だけがわたしたちの罪を清め裁きの日に「完全な者」として御前に立つことが出来るようにするのです。エパフラスはまた「神の御心を全て確信しているように」と祈りました。パウロがこの書簡で解き明かした「神の永遠の計画」を知ることです。それは主イエスを知るように、ということです。主イエスに無尽蔵の富、永遠の命が隠されているからです。
 ダビデの祈りも、パウロの祈りも、「神の秘められた計画」を知るという目的を達成しています。その意味において、かなえられない祈りはありません。わたしたちの祈りも全てかなえられるのです。ですから絶えず目覚めていて、熱心に祈らなければなりません。