2009年12月20日日曜日

マタイ1章18-25節「神は我々と共におられる」

第116号

〈クリスマス礼拝〉

 子供にとってクリスマスといえばサンタクロースです。欲しい物をお願いしておくと、クリスマスの日、その願いがかなっています。不思議に思うと同時に確かにサンタクロースはいると信じます。似通ったことが多くのクリスチャンにも言えるのではないでしょうか。祈りが聞かれると神を信じ、そうでないと神がおられるとは思えなくなるのです。しかし、聖書が教える神はそのような神とは違います。
 大工のヨセフは許嫁のマリアに子ができたのを知りました。自分の子ではありませんでした。当時、姦淫の罪は死刑でした。。ヨセフはそのようなことは望みませんでしたので、マリアの子を自分の子と認めたうえで「縁を切ろうと決心した」のです。「このように考えていた」ヨセフに「主の天使が夢に現れて」マリアを妻とするように「命じられた」のです。ヨセフは神の御意志を知ってマリアを妻とし、その子を自分の子としたのです。

 人類の初めであるアダムとエバは神と自由な交わりを持っていました。エデンの園で彼らは主の顔を見、その声を聞き、園を歩かれる主の足音を聞いていました。神はアダムとエバと共におられました。しかし、彼らはサタンにそそのかされて罪を犯しました。神の戒めに善し悪しの判断を加え、神に代わって自分で生きようとしたのです。その結果、神を避けるようになりました。神はそのアダムとエバに「どこにいるのか」と声をかけられ、「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問われました(創世記三章九、一一節)。アダムとエバは犯した罪の責任を回避しようと、わたしが悪いのではない、女が、蛇が、いや、あなたが、…と、言い逃れをしました。このようにアダムとエバ、そしてその子孫は生ける神との霊的交わりを失い、死ぬものとなりました。
 時代を経て、神はアダムとエバの子孫の中からアブラハムを選ばれ、三つのことを約束されました。それは「子孫」を与えること、「土地」を与えること、すべての民の「祝福の源」となることでした。その約束は子のイサクとその子のヤコブに引き継がれました。ヤコブは神によってイスラエルという名を与えられましたが、それは「神が支配される」という意味でした。エジプトに下ったヤコブの七五人の家族は四百年経った時、二百万人を超える民となっていました。しかし、彼らはエジプト人の奴隷でした。
 神はモーセを遣わし、その民を荒野に導き出され、自由の民とされました。神は昼は雲の柱、夜は光の柱となって彼らを導き、マナで養われました。また十戒と幕屋を与えられました。この民を率いてアブラハムに約束されたカナンの地に入ったのはモーセの後を継いだヨシアでした。
 イスラエルの民は預言者サムエルの時代に王制となり、エルサレムには幕屋に代わって神殿が建てられました。しかし、イスラエルの繁栄は長くは続かず、南北の王朝はアッシリアとバビロニアによって滅ぼされました。異教の地で捕囚となった民は聖書を編纂し、それによって律法を学び、律法に従って生きようとしました。このためにユダヤ人が集まるところにはシナゴグと呼ばれる会堂が建てられました。
 ペルシャ王クロスの時に帰還が許されましたが、多くのユダヤ人は捕囚の地にとどまりました。帰還した民はエルサレムに神殿を再建しました。
 主イエスの時代、イスラエルでは律法を厳格に守って暮らすファリサイ派の人たちや律法学者たちが民の指導者となっていました。サンヘドリンと呼ばれるユダヤ人議会の議員の多くを占め、また律法の教師として民衆の支持を集めていたのです。しかし、彼らは主イエスが「自分を神としている」ことを問題にしました。彼らにとって主イエスの言動は赦しがたい神への冒涜だったのです。そのため遂に民衆を扇動し、十字架につけて殺しました。

 イスラエルの歴史を見ますと、神は民と共におられましたが、「子孫」、「土地」、「神殿」、「王」、「律法」といったものによっては、人は救われないことを教えます。それらは来るべきメシアである主イエスとその救いを証しするものであって、それ自体に人を救う力はなかったからです。
 クリスマスの出来事、それは神御自身が人となってこの世に来られたということです。それによって「神は我々と共におられる」ことが実現したのです。しかし、それは主イエスの十字架と復活、ペンテコステの時まで待たなければなりませんでした。主イエスがわたしたちの心の内に住まわれることによって、わたしたちははじめて神の声に従って生きることができるようになったからです。
 インマヌエル、それは、神が御自身の民への主権の回復の宣言であり、再び御自身の民を支配するその到来でした。主イエスにより教会が新しいエルサレムになったのです。

2009年10月18日日曜日

ペトロ一2章1-10節「生きた石」

第114号

 
 「生きた石」とは「死んだ石」に対応しています。それでは「死んだ石」とは何でしょうか。旧約聖書において神の言葉である十戒は石の板に刻まれていました。十戒とは神の民が守るべき掟で、神とイスラエルの民が交わした契約でした。その契約とは、民が十戒を守るならカナンの地で豊かな生活が約束され、守らないなら滅ぼされるというものでした。この石の板は契約の箱に入れられ、神殿の至聖所に置かれました。契約の箱の蓋は贖いの座と呼ばれ、その上に一対の翼を広げたケリビムが置かれました。その翼で囲まれた空間に神は臨在され、御言葉を発すると信じられていました。大祭司は年に一度、自分と民の贖いのための小羊の血を持って至聖所に入り神の臨在の前で罪の許しを祈りました。イスラエルの民はエルサレムの中心は神殿で、神はそこから世界を支配されると信じていました。神殿と祭儀で大切なのは、十戒は神の言葉で、民はその戒めを守らなければならないこと、しかし、守れない民の罪を生贄の動物の命で贖うということでした。
 このように神の裁きは小羊の血によって贖われるという恵みの下にあったにも拘らず、イスラエルの民は約束の地でこの神に替えて土着のバアルやモレクといった異教の神々を礼拝するようになりました。神は預言者を遣わし、民にご自身の元に立ち帰るよう促しましたが、民の心は頑なで回心することはありませんでした。神は遂にそのような民を契約に基づいて滅ぼされました。それが七二二年に北王国イスラエルで、五八七年に南王国ユダで起こったことでした。両国はそれぞれアッシリアとバビロニアによって滅ぼされたのです。
 「死んだ石」とは石の板に書かれたモーセの十戒のことです。十戒は民に何が罪であるかを教えますが、それを守って生きる力を与えませんでした。それゆえ「死んだ石」なのです。

 神の子である主イエスがこの世に来られたのは、ご自身に反逆して生きる民が真実な神に立ち返り、十戒を守って生きることのできるようにされるためでした。主イエスに先立って洗礼者ヨハネが遣わされましたが、ヨハネは主イエスをイスラエルの民に紹介し「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました(ヨハネ一:二九)。主イエスはわたしたちの罪の身代わりとなり、十字架で血を流されたのです。しかし、天の父は主イエスを墓から甦らされました。主イエスは天に上られ、そこから弟子たちに約束の聖霊を送られたのです。聖霊は神であり、主イエスの霊でもあります。主イエスは神の「ことば」でもあり、このことは神の言葉がわたしたちの心に宿ることでもあります。それがペンテコステの出来事でした(使徒二:一~四)。聖霊は今日に至っても信じる者に与えられるのです。そして、そのことによりわたしたち自身が神殿となるのです(一コリント三:一六~一七)。

キリストの霊を与えられた人たちの集まりが教会です。そこにはもはや人種や民族の違いはありません。「聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿と」なるのです(エフェソ二:一九~二二)。従って教会もまた神殿なのです。神はイスラエルの人々が十字架につけて捨てた石を用いて神殿を立てられたのです。
 主イエスは生前フィリポ・カイザリアからの帰路、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねました。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えると、主イエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました(マタイ一六:一五~一六)。ペトロとは石、岩を意味します。カトリック教会ではペトロに教会の権威が与えられたと理解します。教皇はペトロの権威を継承する者としてカトリック教会の正統性の根拠としています。それに対し、プロテスタント教会はペトロではなく彼の告白の上に教会が立てられると理解します。ペトロの信仰告白はわたしたちの内に神の霊が宿って初めて言うことができるのです。神の選びは、わたしたちに聖霊が与えられたということにあるのです。

  神はイスラエルの民に十戒を守るならカナンの地を与えると約束されました。しかし、主イエスはわたしたちに、ご自身の声に従って歩むなら新しい天と新しい地を与えると約束されました。御言葉に従って歩む時に私たちには大きな喜びが与えられるのです。そのことこそ「死んだ石」である十戒と、「生きた石」であるキリストの言葉との違いです。わたしたちに、従おうとする意志と同時にそうすることのできる力をも与えられたのです。そうであるが故に、「生きた石」となったのです。

2009年9月20日日曜日

ペトロ一1章1-12節「神の豊かな憐れみ」

第113号

  著者は伝承によれば主イエスの十二使徒の一人であるペトロと言われてきました。しかし今日、多くの学者はそれに対して疑問を持っています。その理由の一つは、ガリラヤの漁師であったペトロがこなれたギリシャ語を書くとは思えないことです。また、書簡の終わりに「バビロンにいる人々…が、よろしくと言っています」(五章一三節)とありますが、ローマをそのように隠語で呼ぶようになったのは七〇年代以降のことで、ペトロは六四年に殉教したと伝えられています。また、この書簡が書かれたのは九〇年代ではないかとも言われています。書簡はパウロの神学的な影響を受けていることが指摘されています。書簡の代筆者であるシルワノがパウロの弟子であったことがその理由と思われます(五章二節)。

 「…各地に離散して…いる選ばれた人たちへ」に続き、「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて…選ばれたのです」とあります。「選び」は神によるもので、神はアブラハム、そして、イスラエルの民を選ばれました。主イエスは一晩祈って、弟子たちの中から十二人を選ばれました(ルカ六:一二~一三)。同じように神は永遠の昔、天地が創られる前、わたしたちを知っていて救うために選ばれたのです(エフェソ一:四、五)。わたしたちの心に聖霊を与えられたのは神で、それによって、キリストの体である教会の一員とされるのです。
 「憐れみ」とはこのような神の御計画を知って初めて分かるのです。光の全くない世界に生きていたわたしたちが、光を見出して救われたのはあくまで神の側からわたしたちに手を差し伸べてくださったからです。
 光である主イエスはこの世で苦難の道を歩まれました。その極みは十字架の死でした。その死によってわたしたちの罪の贖いとなりました。わたしたちを救うために天の父御自身が主イエスの手と足に釘を打たれ、脇腹にやりを刺されたのです。この御子の痛みと苦しみは天の父の痛みと苦しみでもありました。これほどの犠牲を払われるほどにわたしたちを憐れまれたのです。
 この主イエスを信じて従うということは、わたしたちもまたこの世にある間、様々な試練に苦しまなければならないことを意味します。しかし、神がすべてのものをご支配なさっておられるなら、わたしたちはどのような試練をも神の御心として受けることができます。それだけでなく、試練にあっても尚、神の力に守られていると信じることができるのです。
 ルカの福音書には放蕩息子のたとえ話があります。父親から相続財産の生前贈与を受けた息子は遠い外国に行ってそのすべてを使い果たしました。そこで初めて息子は悔い改め、父の家に帰る決心をしました。それ以外に生きるすべがなかったのです。父親はそのような息子であっても帰ってくるのを待っていました。遠くから歩いてくる我が子を見て憐れに思い駆け寄りました。そして、息子は死んでいたのに生き返った、と喜び祝宴を設けたのです。しかし、放蕩息子の兄はそのような父を理解できませんでした。弟がしたことは自業自得で、父がなぜそのまま許してしまうのかが分からなかったのです。この父の赦しの背後には、主イエスの十字架の贖いがあるのです。人生の挫折を味わい、神に立ち帰った者は放蕩息子に自分を、放蕩息子の父親に天の父を重ねるのです。わたしたちもまた神の憐みにすがる以外に生きるすべがないのです。
 旧約聖書にあるヨブ記もまた試練に遭うわたしたちに、神を頭で理解するのではなく、個人的に知ることの大切さを教えます。「主は与え、主が奪う。主の名はほめたたえられよ」…「わたしは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」と言いました(ヨブ一:二一、二:一〇)。ヨブは神から憐みを受け、試練で失ったもの以上が与えられました。ヨブ記はわたしたちに神と人格的な交わりを持ち、神を「あなた」と呼べるようになることの大切さを教えます。

 神の「選び」と「憐れみ」はわたしたちの救いの基です。わたしたち自身には救われる根拠がないからです。わたしたちに臨む良いことも悪いことも、そのすべてが神から来ます。試練もまた、わたしたちの信仰が「本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現われるときには、賞賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。
 主イエスに苦難を与えられた天の父が、御子を再びその死から復活させられたように、わたしたちの試練もまたすべてを益に変えられ、その最後にわたしたちを復活させてくださるのです。神は御子によって来るべき世をわたしたちに用意され、主イエスが天の栄光を受けたようにわたしたちもまた天にあるすべてのものを受け継ぐことができるようにされたのです。御子イエスをわたしたちに与えてくださったことこそ「神の豊かな憐れみ」なのです。

2009年7月19日日曜日

ヘブライ書13勝1-25節「来るべき都」

第111号
  
 先日、クオ・ヴァディスという古い映画を見ました。ローマ皇帝ネロが支配する時代が背景です。その中で多くのキリスト者がローマの円形野外劇場でライオンの餌食にされるという残酷な場面がありました。わたしもローマに行った時、その劇場を訪れたことがありますので身につまされる思いでした。しかし、過去の歴史は、そのような殉教がローマ帝国をキリスト教国に変えていったことを知らせます。
 今年は日本のプロテスタント宣教一五〇周年ですが、この間、ホーリネス教会の人たちを例外として殉教した信者はいませんでした。一方、韓国では多くのキリスト者が殉教しました。中国でも共産党の独裁の下で多くのクリスチャンが迫害を受けました。韓国ではキリスト者が総人口の三〇パーセント、中国でも五~一〇パーセントを占めていますが、日本は未だに一パーセントに満たないのです。
 開国と同時に日本に来た欧米の宣教師たちは極めて優秀な人たちでした。彼らの宣教を受け入れた日本人の多くは武士階級でした。彼らは当時の士農工商に分けられた社会の最上位に属するエリート層で、人口の五パーセントを占めていました。そのためか教会は教えを学ぶところとなり、より救いを必要とする弱く、貧しい層への伝道の場になりにくかったのではないでしょうか。キリスト教が日本に初めて伝来した織田信長や豊臣秀吉の時代のカトリックの布教と異なっていたと思うのです。多くの人が殉教しましたが、信徒数は人口の二~三パーセントに達したからです。

 聖書は繰り返して、新しい世界は古い世界が滅ぶことによって生まれること、そしてわたしたち自身も、古い自分が死ぬことによって新しい命が宿ることを教えます。
 ノアの時代、古い世界は洪水によって滅び、ノアと家族だけが新しい世界を受け継ぐことができました。アブラハムに子孫が与えられるとの主の約束はアブラハムが百歳、妻のサラが九〇歳になった時に成就しました。子を宿すのが不可能な死んだ身体に命が宿り、イサクが誕生しました。モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民は滅ぼされました。ヨシュアとカレブ以外は、荒野で生まれた新しい世代の人たちだけが約束の地に入ることが許されました。カナンに住むようになったイスラエルの民は士師の時代を経てサウルが王となり、ダビデがその後を継いで全土を支配するようになりました。ダビデは姦淫をし、バテシバによって子を儲けましたが、その子はダビデの罪を負って死ななければなりませんでした。しかし、主は彼らを赦しソロモンを授けられました。ソロモンの後、王国は北と南に分裂しましたが、結局、北王国も南王国も滅ぼされました。南王国のダビデ王朝は滅びましたが、預言者ナタンをとおしてダビデに与えられた約束は主イエスによって成就したのです。

モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民はシナイ山で神から律法を授けられました。律法は約束の地で神の民として生きるに相応しい憲法であり倫理基準でした。しかし、民は律法を守って生きることはできませんでした。これらのことはわたしたちによい行いや宗教的儀式によっては、救われないことを教えます。ユダヤ人であろうと異邦人であろうとわたしたちは誰一人、神の審きの前に立つことはできません。このようなわたしたちを救うために天の父はご自身の独り子をこの世に遣わされました。しかし、律法を民に教え、自ら厳格に守って生きてきた律法学者やファリサイ派の人たち、また、神殿で仕えてきた大祭司たちがこのお方を十字架に掛けて殺してしまいました。
 十字架の出来事こそ、古いものが滅び新しいものにとって代わることの真の意味です。主イエスは、ご自身の血で人々の罪を贖われました。その罪を認め、主イエスを神と信じる時、わたしたちの内に神の霊が宿ります。この霊によってわたしたちは古い自分に死に、主イエスが代わって生きるようになるのです。それはわたしたちが新しく創造されるということです。主イエスが王として支配する神の国は、このような民によってもう既にこの世で始まっているのです。この民が「来るべき都」の住民となるのです。
 「来るべき都」こそ、ヘブライ人への手紙の主題です(参照、二章五節、六章五節)。この世は滅びます。滅んだ後に、新しい「永続する都」が天から下ってくるのです。
 クオ・ヴァディスではペトロはアッピア街道で主イエスに出会い、ローマに戻りました。そこで十字架刑に処せられると聞いて「主と同じだ。十字架で死ぬことができる」と喜ぶのです。殉教はその人がどのように確信していたかを教えます。そのためその死は多くの人に命をもたらすことになるのです。

2009年6月21日日曜日

ヘブライ書10章19-39節「真心から神に近づこう」

第110号

  
 最近読んだ本に、わたしたちは主イエスを受け入れた時から清い者とされ、罪と縁を切った生活が始まると書かれていました。さらに、ある牧師は説教で、わたしが嘘をついたり、乱暴な言葉を使ったり、両親を敬わなかったりしたのを見た人には百万円を払いましょう、とまで言ったことを紹介していました。主イエスの救いに預かった者は、それまでの罪から神の支配下に置かれることによって、もはや意識的な罪を犯すことはなくなり、聖霊の恵みによって「聖化」の道を歩み始めるとのことでした。
 それと対照的な記事が、別の小冊子に書かれていました。それは現行讃美歌二五六番についてでした。作詞者である葛葉国子さんは、戦後、胸を病み床に伏せっていました。毎日飲む薬の紙に詩を書いていましたが、その一つをオルガニストの大中寅二さんが作曲したのです。死を前にして自らの罪深さを知らされ、そのような自分と共にいて苦しまれる主イエスに感謝したものです。
 聖書には姦淫の女であったと言われるマグダラのマリアが主イエスに出会って救われたことが書かれてあります。ある教会ではこの罪の女が主イエスによって「聖人」とされ、聖霊の働きにより神に喜ばれるように変えられていく恵みが強調されています。別の教会ではマリアは主イエスに救われることにより自分の犯してきた罪がどのようなものであったかを知らされ、今なお罪深い自分が生かされていることへの感謝が強調されています。
 この信仰の違いは福音と律法の関係をどのように理解するかによって生じます。福音と律法が結びついているのであるなら、わたしたちは神の恵みに応答する「責任」あるいは「義務」を持つことになります。福音は律法すなわち良い行いに結び付き、その実を結ぶことが神に喜ばれることになります。この場合、信仰は極めて倫理的な面が強調されることになります。しかし、福音と律法を切り離すなら、わたしたちの救いはあくまで主イエスの十字架と復活によるものとなります。従って、救われた後も自らの心と行いの「聖化」を求めることは自由意志の働きに他ならず、主イエスのなされた救いに人間的な価値を付加しようとするものでしかなく、その結果は罪に帰することになります。

 信仰者には、主イエスによって罪が赦され、新しい自分とされたことに感謝しながら「聖化」の道を歩む者と、今なお罪人でありながらそのような自分を義人としてくださっている恵みに感謝しながら歩んでいる者がいるようです。わたしたちの信仰は、果たしてどちらなのでしょうか。主イエスはそのどちらに「忠実な良い僕だ、よくやった」と言われるのでしょうか(マタイ二五:二三)。
 主イエスは、神を愛し、人を愛しなさい、この言葉に律法全体が基づいている、と言われ(マタイ二二:三七~四〇)、「あなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました(マタイ五:四八)。これらの言葉は、心と行いが清くなり少しでも神に近い存在となって神の前に立つことを求めているのでしょうか。
 パウロはそのように考えるわたしたちに、だれ一人神の前で義とされないこと、律法によっては、罪の自覚しか生じないこと、それゆえ、律法と関係なく、神の義が示されたことを教えます(ロマ書三:二〇~二一)。そして、あなたがたは霊によって始めたのに、今になって肉によって仕上げようとするのですかと問うのです(ガラテヤ書三:三)。

  主イエスは「新しい生きた道」となられました。モーセの跡を継ぐ者として、律法の基準に従ってわたしたちがどれほど霊的な高みに到達し、良い行いができるようになったのかを裁かれるお方ではありません。わたしたちのために為すべきすべてをしてくださった救いの創造者であって、当事者である神ご自身なのです。それによって、律法は「古い死んだ道」となったのです。
 主イエスはご自身の栄光とこの世を捨てられました。そうすることにより、「来たるべき世界」をご自分の国とされたのです。「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出して下さい」とあります。わたしたちは主イエスの約束に生きるものです。その約束とは主イエスの再臨と新しい世界の住民とされることです。そのために、あなた方は「あざけられ、苦しめられ、見せ物にされたこともあり」、「捕えられた人たちと苦しみを共にし」、「財産を奪われても喜んで耐え忍んだのです」。
 「真心から神に近づこう」とは、この主イエスに目を注ぐということに他なりません。それは自分やこの世のために生きるのではなく、天の父の約束に生きるということなのです。

2009年5月17日日曜日

ヘブライ書7章1-28節「イエスは永遠に生きている」

第109号 

神殿における祭司の務めは人間がいかにして神に近づくことができるのかを教えています。大祭司は年に一度、贖いの捧げものの血を携えて聖所を通り至聖所に入りました。至聖所は神の臨在の場でした。そこで民の罪が赦されるように執り成しの祈りをし、聞き届けられた確信を得ると神殿の外に出て、待っている民に罪が赦されたことを告げたのです。祭司は「レビの系統」でした。レビはヤコブの子で、他の兄弟は嗣業の土地を得ましたが、レビとその子孫だけは嗣業の土地を持たず、民から十分の一の捧げ物を受けたのです。
 ヘブライ人の著者はこのような祭司制度をメルキゼデクと比較しています。メルクは「王」で、ツエデクは「正義」の意味です。彼には誕生と死の記録がありません。戦いから帰ってきたアブラハムを祝福し、アブラハムから十分の一の捧げものを受け取りました。このことはまだレビが生まれる前のことですから、レビもまたアブラハムによってメルキゼデクから祝福を受け、十分の一の捧げものをしたことになりました。同時に、アブラハムはわたしたちの「信仰の父」でもあるので、わたしたちクリスチャンもまたメルキゼデクから祝福を受け、十分の一の捧げものをしたことになります。
 メルキゼデクは主イエスの「ひな型」です。主イエスもまたレビの系統に属さず、突如として現われ、天の父から任命され、「誓い」によって「永遠の大祭司」とされたからです。

 主イエスは「永遠に生きている」お方です。永遠に存在するお方は神だけです。このお方によってわたしたちが今住んでいる「この世」は創られました。初めがあり、終りがある有限の世界です。「この世」に対し「来るべき世界」があります(二章五節)。そこに入ることがわたしたちの「希望」であり「救い」です。「来るべき世界」は神のもとに用意されていて、「この世」の終わりと共に天から下ってきます(黙示録二一章一~二節)。この「聖なる都、新しいエルサレム」は永遠に続くのです。「この世」と「来るべき世界」との間には断絶があります。
 「永遠に生きている」主イエスは「来るべき世」の創造者でもあります。わたしたちを「来るべき世界」に入ることができるように、「人の子」となって「この世」に遣わされてきたのです。このお方は十字架でわたしたちの罪を贖われましたが、復活し「神の子」であること、そしてわたしたちもまた復活することの確かなことを証しされました。
 このお方が「この世」の終わりの時、わたしたちを裁かれるのです。その時、わたしたちはどのように新しい「聖なる都」の一員に相応しいと主張することができるのでしょうか。「この世」でしてきたよい行いでしょうか。それともわたしたちの信仰によるのでしょうか。
 近代文明は英国で起こった産業革命から始まりました。中世に終焉を告げた文芸復興、啓蒙思想により人間の理性への信頼が著しく高まりました。人間は罪を含め様々な問題を解決できると信じ、希望に満ちた将来を夢見ることができるようになりました。しかし、この極めて楽観的な人間中心主義は結局、第一次、第二次と続いた世界大戦により砕かれてしまいました。そして今日、テロや犯罪、地球温暖化や環境破壊、貧困、差別、格差といった様々な問題が人類の将来を不透明にし、不安にしています。多くの教会や神学者がこのような「この世」の問題に取り組んできました。
 わたしたちは人間の英知を認め、社会への貢献によって「来るべき世界」の一員に相応しいと認められると思っているのでしょうか。わたしたちは神の被造物にすぎません。塵から生まれ塵に、裸で生まれ、裸で去っていくのです。「この世」の価値は主イエスの生き方と一致するのでしょうか。「新しいエルサレム」で通用するのでしょうか。それとも主イエスに救われたことによって、わたしたち自身の内に永遠の命に相応しい価値を持ったのでしょうか。

主イエスの十字架に、わたしたちの罪を赦す神の無限の愛があります。主イエスは、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。そのお方は裁きの座でも、わたしたちのために執り成してくださるのです。それ故、神はわたしたちの罪を見ずにわたしたちを「来るべき世界」の一員としてくださるのです。
 聖書の神は聖なる神で罪を裁かれる厳しいお方です。神が神であられ、人が人であるからです。もし神が厳しいお方ではなくわたしたちの友であるというのなら、それは祈りにおいてでしょう。
 わたしたちが救われるのは神であり、人であられた主イエスが十字架で流された贖いの血と執り成しによります。このお方こそ神の「誓い」によって立てられた「永遠に生きている」大祭司だからです。

2009年4月19日日曜日

マタイ28章1-10節「あの方は復活された」

第108号

  〈イースター礼拝〉

 ユダヤ人指導者たちは主イエスが大工だったことを知っていました。彼らから見れば主イエスは人を教えるに必要な学歴も権威も持っていませんでした。しかも、自分を「神の子」とし、神と等しくしていたのです。それは神への冒涜であって死罪に当たりました。民衆は主イエスのなさった「しるし」を見て従いましたが、自分たちの思うようにならないのを知ると離れて行きました。彼らにとって、主イエスは病気を癒すといった自分たちの利益にかなう者であるかどうかが最大の関心事だったのです。主イエスの弟子たちは「あなたはメシア、生ける神の子です」、「あなたは永遠の命を持っておられます」と告白ました(マタイ一六:一六、ヨハネ六:六八)。しかし、彼らが信じるメシアは、イスラエルをローマから救われる政治的な王でした。弟子たちはこの世に神の国をつくり、主イエスと共にその国を支配することを願っていました。母マリアにとって主イエスはどのような存在だったのでしょうか。彼女にとって主イエスは何にも代え難い大切な我が子でした。マリアにとって十字架を見ることはどれほど大きな苦痛だったことでしょう。
 主イエスは十字架に付けられました。その上で動くこともできず、呼吸することすら困難でした。それは、弱さ、無力の極みで、そこから逃れるには死しかありませんでした。主イエスは人に捨てられ、神に捨てられたのです。その時代の誰がこのお方が神であると信じたでしょうか。今日、多くの人がそうであるように「このお方がどうして神なのか」ということでした。

 主イエスが死んで三日目の朝早く、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓のところに行きました。すると天使が現れ「あのお方は死者の中から復活された」、あなた方はそのお方に「お目にかかれる」、そのことを「確かに、あなた方に伝えました」と言われたのです。
 婦人たちはその言葉を弟子たちに伝えようと道を急いでいる途中、主イエスが彼らの前に立たれました。婦人たちは主イエスの足を抱き、ひれ伏しました。「ひれ伏す」とは「礼拝」であって、自らの命を差し出すことです。それは神に対してだけなされる行為でした。主イエスは彼らの礼拝を受けられたのです。
 婦人たちは復活された主イエスの「証人」となりました。わたしたちは聖書を読み、説教を聞くことによって「信じる」ことができます。しかし、復活の主イエスに出会うことなくしてそのお方の「証人」となることはできません。
 復活の主イエスに出会うことによって、わたしたちは変えられます。かつては、神が天地を創られたのだから、その神が主イエスを死から甦らせることだってできる、と信じていたのが、主イエスが主体となり、このお方によって天地は創られたと信じることができるようになるのです。主イエスがこの世界を保持され支配されているのです。天の父と御子イエスは同じ神であって、創造と救済が結びつくのです。神は創造の初めに「光あれ」と言われましたが、同じように混沌とした闇の世界に「神の子」である主イエスが「光」となって来られました。このお方は十字架の死を避けることができたにもかかわらずその力を行使されませんでした。それはご自身の命を捧げることが、わたしたち人間の罪を赦す唯一の道であるのを知っていたからです。わたしたちは十字架に「人の子」である主イエスの弱さと共に、「神の子」である主イエスの力とわたしたちへの愛を見るのです。

 主イエスは「神の子」であり「人の子」でした。「人の子」である主イエスは、すべての人が見ることができました。エルサレムに住んでいた人は誰でもゴルゴダに行けば十字架に付けられた主イエスを見ることができたのです。「人の子」である主イエスはこの世に再び来ると約束されましたが、その時にも、その有様はすべての人の目に見えることでしょう(ルカ二一:二七)。
 復活された「神の子」である主イエスの姿は多くの人の目に隠されています。主イエスの弟子や母マリアですら復活の主イエスに出会うまで、主イエスが神ご自身であるとは思ってもいませんでした。復活されたこのお方は死に勝利された生ける神でした。主イエスは二人の婦人だけでなく弟子たち、そして多くの人たちにご自身を示され、今日に至っています。
 わたしたちもまた、そのことの「証人」です。「あのお方は復活された」のです。「あなたも会うことができる」のです。そして、わたしたちは「確かにあなた方に告げました」。それがわたしたちの教会の「証し」なのです。
 わたしたちは死んでしまったお方の教えを学んで今、生きる糧にしている訳ではありません。今生きておられるそのお方の御言葉に従っているのです。

2009年3月15日日曜日

マタイ28章1-10節「あの方は復活された

第107号

  〈イースター礼拝〉

 ユダヤ人指導者たちは主イエスが大工だったことを知っていました。彼らから見れば主イエスは人を教えるに必要な学歴も権威も持っていませんでした。しかも、自分を「神の子」とし、神と等しくしていたのです。それは神への冒涜であって死罪に当たりました。民衆は主イエスのなさった「しるし」を見て従いましたが、自分たちの言いなりにならないのを知ると離れて行きました。彼らにとって、主イエスは病気を癒してもらえるといった自分たちの利益にかなう者かどうかでしかありませんでした。主イエスの弟子たちは「あなたはメシア、生ける神の子です」、「あなたは永遠の命を持っておられます」と告白ました(マタイ一六:一六、ヨハネ六:六八)。しかし、彼らが信じるメシアは、イスラエルをローマから救われる政治的な王でした。弟子たちはこの世に神の国をつくり、主イエスと共にその国を支配することを願っていました。母マリアにとって主イエスはどのような存在だったのでしょうか。彼女にとって主イエスは何にも代え難い大切な我が子でした。マリアにとって十字架を見ることはどれほど大きな苦痛だったことでしょう。
 主イエスは十字架に付けられました。その上で動くこともできず、呼吸することすら困難でした。それは、弱さ、無力の極みで、そこから逃れるには死しかありませんでした。主イエスは人に捨てられ、神に捨てられたのです。その時代の誰がこのお方が神であると信じたでしょうか。今日、多くの人がそうであるように「このお方がどうして神なのか」ということでした。

 主イエスが死んで三日目の朝早く、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓のところに行きました。すると天使が現れ「あのお方は死者の中から復活された」、あなた方はそのお方に「お目にかかれる」、そのことを「確かに、あなた方に伝えました」と言われたのです。
 婦人たちはその言葉を弟子たちに伝えようと道を急いでいる途中、主イエスが彼らの前に立たれました。婦人たちは主イエスの足を抱き、ひれ伏しました。「ひれ伏す」とは「礼拝」であって、自らの命を差し出すことです。それは神に対してだけなされる行為でした。主イエスは彼らの礼拝を受けられたのです。
 婦人たちは復活された主イエスの「証人」となりました。わたしたちは聖書を読み、説教を聞くことによって「信じる」ことができます。しかし、復活の主イエスに出会うことなくしてそのお方の「証人」となることはできません。
 復活の主イエスに出会うことによって、わたしたちはそれ以前の自分とは変わります。わたしたちは、神は天地を創られたのだから、その神が主イエスを死から甦らせることはできる、と信じていました。しかし復活の主イエスに出会うことは「このお方によって天地は創られた」と信じることができるようになるのです。このお方が世界を保持され支配されているのです。天の父と御子イエスは同じ神であって、創造と救済が結びつくのです。神は創造の初めに「光あれ」と言われましたが、同じように混沌とした闇の世界に「神の子」である主イエスが「光」となって来られました。このお方は十字架の死を避けることができたにもかかわらずその力を行使されませんでした。それはこれ以外にわたしたち人間の罪を赦す道がないのを知っていたからです。わたしたちは十字架に「人の子」である主イエスの弱さと共に、「神の子」である主イエスの力とわたしたちへの愛を見るのです。

 主イエスは「神の子」であり「人の子」でした。「人の子」である主イエスはすべての人が見ることができました。エルサレムに住んでいた人は誰でもゴルゴダに行けば十字架に付けられた主イエスを見ることができたのです。「人の子」である主イエスは再びこの世に来ると約束されましたが、その時にも、その有様はすべての人の目に見えることでしょう(ルカ二一:二七)。
 復活された「神の子」である主イエスの姿は多くの人の目に隠されています。主イエスの弟子や母マリアですら復活の主イエスに出会うまで、主イエスが神ご自身であるとは思ってもいませんでした。復活されたこのお方は死に勝利された生ける神でした。主イエスは二人の婦人だけでなく弟子たち、そして多くの人たちご自身を示され、今日に至っています。
 わたしたちもまた、そのことの「証人」です。「あのお方は復活された」のです。「あなたも会うことができる」のです。そして、わたしたちは「確かにあなた方に告げました」。それがわたしたちの教会の「証し」なのです。
 わたしたちは死んでしまったお方の教えを学んで今、生きる糧にしている訳ではありません。今生きておられるそのお方の御言葉に従っているのです。