2009年3月15日日曜日

マタイ28章1-10節「あの方は復活された

第107号

  〈イースター礼拝〉

 ユダヤ人指導者たちは主イエスが大工だったことを知っていました。彼らから見れば主イエスは人を教えるに必要な学歴も権威も持っていませんでした。しかも、自分を「神の子」とし、神と等しくしていたのです。それは神への冒涜であって死罪に当たりました。民衆は主イエスのなさった「しるし」を見て従いましたが、自分たちの言いなりにならないのを知ると離れて行きました。彼らにとって、主イエスは病気を癒してもらえるといった自分たちの利益にかなう者かどうかでしかありませんでした。主イエスの弟子たちは「あなたはメシア、生ける神の子です」、「あなたは永遠の命を持っておられます」と告白ました(マタイ一六:一六、ヨハネ六:六八)。しかし、彼らが信じるメシアは、イスラエルをローマから救われる政治的な王でした。弟子たちはこの世に神の国をつくり、主イエスと共にその国を支配することを願っていました。母マリアにとって主イエスはどのような存在だったのでしょうか。彼女にとって主イエスは何にも代え難い大切な我が子でした。マリアにとって十字架を見ることはどれほど大きな苦痛だったことでしょう。
 主イエスは十字架に付けられました。その上で動くこともできず、呼吸することすら困難でした。それは、弱さ、無力の極みで、そこから逃れるには死しかありませんでした。主イエスは人に捨てられ、神に捨てられたのです。その時代の誰がこのお方が神であると信じたでしょうか。今日、多くの人がそうであるように「このお方がどうして神なのか」ということでした。

 主イエスが死んで三日目の朝早く、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓のところに行きました。すると天使が現れ「あのお方は死者の中から復活された」、あなた方はそのお方に「お目にかかれる」、そのことを「確かに、あなた方に伝えました」と言われたのです。
 婦人たちはその言葉を弟子たちに伝えようと道を急いでいる途中、主イエスが彼らの前に立たれました。婦人たちは主イエスの足を抱き、ひれ伏しました。「ひれ伏す」とは「礼拝」であって、自らの命を差し出すことです。それは神に対してだけなされる行為でした。主イエスは彼らの礼拝を受けられたのです。
 婦人たちは復活された主イエスの「証人」となりました。わたしたちは聖書を読み、説教を聞くことによって「信じる」ことができます。しかし、復活の主イエスに出会うことなくしてそのお方の「証人」となることはできません。
 復活の主イエスに出会うことによって、わたしたちはそれ以前の自分とは変わります。わたしたちは、神は天地を創られたのだから、その神が主イエスを死から甦らせることはできる、と信じていました。しかし復活の主イエスに出会うことは「このお方によって天地は創られた」と信じることができるようになるのです。このお方が世界を保持され支配されているのです。天の父と御子イエスは同じ神であって、創造と救済が結びつくのです。神は創造の初めに「光あれ」と言われましたが、同じように混沌とした闇の世界に「神の子」である主イエスが「光」となって来られました。このお方は十字架の死を避けることができたにもかかわらずその力を行使されませんでした。それはこれ以外にわたしたち人間の罪を赦す道がないのを知っていたからです。わたしたちは十字架に「人の子」である主イエスの弱さと共に、「神の子」である主イエスの力とわたしたちへの愛を見るのです。

 主イエスは「神の子」であり「人の子」でした。「人の子」である主イエスはすべての人が見ることができました。エルサレムに住んでいた人は誰でもゴルゴダに行けば十字架に付けられた主イエスを見ることができたのです。「人の子」である主イエスは再びこの世に来ると約束されましたが、その時にも、その有様はすべての人の目に見えることでしょう(ルカ二一:二七)。
 復活された「神の子」である主イエスの姿は多くの人の目に隠されています。主イエスの弟子や母マリアですら復活の主イエスに出会うまで、主イエスが神ご自身であるとは思ってもいませんでした。復活されたこのお方は死に勝利された生ける神でした。主イエスは二人の婦人だけでなく弟子たち、そして多くの人たちご自身を示され、今日に至っています。
 わたしたちもまた、そのことの「証人」です。「あのお方は復活された」のです。「あなたも会うことができる」のです。そして、わたしたちは「確かにあなた方に告げました」。それがわたしたちの教会の「証し」なのです。
 わたしたちは死んでしまったお方の教えを学んで今、生きる糧にしている訳ではありません。今生きておられるそのお方の御言葉に従っているのです。