第108号
〈イースター礼拝〉
ユダヤ人指導者たちは主イエスが大工だったことを知っていました。彼らから見れば主イエスは人を教えるに必要な学歴も権威も持っていませんでした。しかも、自分を「神の子」とし、神と等しくしていたのです。それは神への冒涜であって死罪に当たりました。民衆は主イエスのなさった「しるし」を見て従いましたが、自分たちの思うようにならないのを知ると離れて行きました。彼らにとって、主イエスは病気を癒すといった自分たちの利益にかなう者であるかどうかが最大の関心事だったのです。主イエスの弟子たちは「あなたはメシア、生ける神の子です」、「あなたは永遠の命を持っておられます」と告白ました(マタイ一六:一六、ヨハネ六:六八)。しかし、彼らが信じるメシアは、イスラエルをローマから救われる政治的な王でした。弟子たちはこの世に神の国をつくり、主イエスと共にその国を支配することを願っていました。母マリアにとって主イエスはどのような存在だったのでしょうか。彼女にとって主イエスは何にも代え難い大切な我が子でした。マリアにとって十字架を見ることはどれほど大きな苦痛だったことでしょう。主イエスは十字架に付けられました。その上で動くこともできず、呼吸することすら困難でした。それは、弱さ、無力の極みで、そこから逃れるには死しかありませんでした。主イエスは人に捨てられ、神に捨てられたのです。その時代の誰がこのお方が神であると信じたでしょうか。今日、多くの人がそうであるように「このお方がどうして神なのか」ということでした。
婦人たちは復活された主イエスの「証人」となりました。わたしたちは聖書を読み、説教を聞くことによって「信じる」ことができます。しかし、復活の主イエスに出会うことなくしてそのお方の「証人」となることはできません。
復活の主イエスに出会うことによって、わたしたちは変えられます。かつては、神が天地を創られたのだから、その神が主イエスを死から甦らせることだってできる、と信じていたのが、主イエスが主体となり、このお方によって天地は創られたと信じることができるようになるのです。主イエスがこの世界を保持され支配されているのです。天の父と御子イエスは同じ神であって、創造と救済が結びつくのです。神は創造の初めに「光あれ」と言われましたが、同じように混沌とした闇の世界に「神の子」である主イエスが「光」となって来られました。このお方は十字架の死を避けることができたにもかかわらずその力を行使されませんでした。それはご自身の命を捧げることが、わたしたち人間の罪を赦す唯一の道であるのを知っていたからです。わたしたちは十字架に「人の子」である主イエスの弱さと共に、「神の子」である主イエスの力とわたしたちへの愛を見るのです。
わたしたちもまた、そのことの「証人」です。「あのお方は復活された」のです。「あなたも会うことができる」のです。そして、わたしたちは「確かにあなた方に告げました」。それがわたしたちの教会の「証し」なのです。
わたしたちは死んでしまったお方の教えを学んで今、生きる糧にしている訳ではありません。今生きておられるそのお方の御言葉に従っているのです。