2010年3月21日日曜日

マルコ14章53-65節「あなたはメシアなのか」

第119号

  最高法院は大祭司を議長とし、祭司長、長老、律法学者たちから成る七〇名の議員によって構成されていました。ローマの植民地であったユダヤの立法府と裁判所としての機能を持っていましたが、彼らの権威はそれだけでなくエルサレム神殿と律法を擁護していることにありました。
 神殿はユダヤ人の誇りであり、各地に散っている民を一つにするものでした。そこは神が宿る聖なる場所であり、祭儀により民の罪を赦すところでした。律法もまたユダヤ人にとって守らなければならない大切な戒めで、それによって神の国にふさわしい聖なる民とされたのです。その教えは十戒やその細則を守ることだけでなく、汚れたものや罪人に触れてはならないということも含まれていました。特に食事に関する規定は厳しく、食前の手洗いの励行や祭儀的に汚れた動物を口にすることは禁じられていました。彼らの権威は神殿祭儀を執り行い、律法を実際の生活に当てはめて教えることにありました。
 それに対する主イエスの権威は御自身にありました。それは神が人となってこの世に来られたからでした。主イエスがなされた数々の「しるし」はそれを証しするものでした。主イエスは人々の罪を赦され、人々が御自身を礼拝するのを受けられました。また、天から遣わされたことを弟子たちに教え、天からの声もまた「これはわたしの愛する子」とそのことを証しました。

 二つの権威が最高法院で衝突しました。大祭司たちは主イエスを被告人として捕らえたのです。判決は始めから死刑と決められ、そのための証人も集められました。しかし、裁判が始まると証言は食い違いました。偽りには真実を覆い隠す力はなかったのです。遂に、ユダヤの最高権威者である大祭司が立ち上がり自ら尋問を始めました。主イエスは沈黙を守っていましたが、あなたは神の子、メシアなのか、との問いに口を開きました。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」。それにより主イエスの死刑が決まりました。周りにいた人たちは主イエスに唾をはきかけ、顔を平手で打ちました。
 ユダヤ人指導者にとって、主イエスの権威が神殿、律法の権威にとって代わるのは許せないことでした。その権威は神によるものだったからです。そして、その権威によって、民を支配し、君臨し、人々からの尊敬も受けていました。主イエスの権威を認めることは、これらのもの全てを失うことでした。
 指導者たちだけでなく、民にとってもそれは同じでした。主イエスによって救われるより、神殿と律法によって救われる方がより確かなことだったからです。
 弟子たちは主イエスを見捨てて逃げました。彼らはこの世の権威の前に無力でした。しかし、ペトロだけは遠く離れて主イエスに従いました。自分の身を安全圏に置いていたのです。ところが突然、身に危険が迫った時、この人を知らないと三度も否んでしまいました。

 最高法院で起こったこと、それは弟子たちを含めて、誰一人、主イエスと一緒に十字架への道を歩むことはできなかったということです。神は民に律法を与えられましたが、この律法による救いはわたしたちが正しい判断が出来るということを前提としています。しかし、この自由意思は人間の自我というフィルターを通すがゆえに歪んで、正しく機能しません。そのため、神御自身が人となってこの世に来られても、誰もそのお方を神の子と認めることも、また、その言葉に権威があることも認められませんでした。そこにわたしたちの罪があるのです。そのことがこの裁判の場で公になったのでした。
 わたしたちは生まれたままの状態では主イエスがどのようなお方か知ることはできません。その苦難と十字架の意味を知ることはできないのです。
 このようなわたしたちは、弟子たちと同じようにペンテコステの出来事を経験することによって初めて変えられるのです。わたしたちの内に注がれた聖霊によって、初めて目が開かれ、耳が聞こえるようになるのです。主イエス御自身の義と聖がわたしたちのものとされるのを知るようになるのです。わたしたちは救いの根拠を自分の内に見つけることはできません。律法による良い行いではなく、主イエスの言葉を信じることが唯一の救いとなるからです。
 主イエスはメシアである。救いはそれを信じる全ての人に及びます。主イエスを裁いた大祭司、長老、律法学者たち、そして主イエスに唾を吐いたり、平手で打った者たちにまでもです。しかし、そのためには心からの悔い改めが必要なのは言うまでもありません。
 わたしたちはこのレントの期間、このように全ての人のために苦しまれた主イエスを覚えて過ごしたいと思います。