第126号
ベエル・シェバ、それはイサクにとって忘れられない所でした。神はそこに滞在していたアブラハムに、モリアの地に行って独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげるように求められた所だったからです。モリアの地とは後のエルサレムでソロモン王が神殿を建て、主イエスが十字架に付けられた所でした。
イサクは父が小羊を連れていないのが不思議でした。父はこれまでにも祭壇を築き、小羊をささげていたからです。イサクが「小羊はどこにいるのですか」と尋ねるとアブラハムは「神が備えてくださる」と答えました。人を死から贖うことのできるお方を信じていたのです。
モリアの地に着くとアブラハムはためらうことなくイサクを屠ろうとしました。それまで優しかった父親が刃物で自分を殺そうとしたのです。その時のイサクの気持ちはどうだったでしょうか。逃げる、暴れる、泣くといったことはしなかったように思われます。小羊のようにされるままだったのでしょう。イサクがべエル・シエバに上るということは、その時のことを思い起こすことでした。
その夜、主がイサクに現れました。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である」。イサクはあの時、自分を屠ろうとしたのは父ではなく、神であったことをよく知っていました。神は身代わりの雄羊を用意されていたのです。そして神は「恐れてはならない」と言われました。神は人の生き死にを決めることのできる権威あるお方でした。そのお方が「わたしはあなたと共にいる」と言われたのです。イサクはその言葉にどれ程勇気づけられたか知れません。主はイサクに父アブラハムと同じ約束を与え「わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす」と言われました。父の信仰が子に継承されたのです。
祭壇を築くこととわたしたちの礼拝とは同じです。イサクはそこに天幕を張り、留まりました。わたしたちも教会にしばし留まり御名を呼ぶのです。イサクの僕たちは井戸を掘りましたが、わたしたちもまたそこから命の水を飲むのです。
アブラハムもイサクもわたしたちと同じように主イエスを見ていたのです(ヨハネ八:五六)。それはこれから来るお方として見るか、既に来られたお方として見るかの違いです。神は「わが僕アブラハムのゆえに」わたしたちを愛して十字架という祭壇に独り子をささげました。そのことを知って、わたしたちもまたこの神の愛に応えるのです。