2011年12月18日日曜日

ヨハネ1章14-18節「その栄光を見た」

第140号

 出エジプト記33章12-23

  「言」はギリシャ語でロゴスです。著者ヨハネは「言」(ロゴス)の概念を用いて、主イエスがどのようなお方であるかを教えます。「言」は耳で聞きますが、頭の中で考えることも「言」です。そして「言」は心で聞くことも出来ます。心の内から聞こえて来る良心の声、そして外から「あなたはどこにいるのか」と問いかけてくる声です。サウルはダマスコに行く途上、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの「言」を聞きました。旧約聖書の預言者もそのような神の「言」を聞きました。わたしたちもまた神の声を聞くことが出来るのです。ヨハネは神の「言」が人となられた、それがイエス・キリストであると言います。
  ヨハネは「神」と「言」を区別しますが、「聖霊」はわたしたちにこの「言」が神であることを証します。それ故、神は「三位一体」なのです。三位一体の概念を説明することは難しいですが、次のように例えることが出来ます。わたしは親に対しては子で、子に対しては親です。そして配偶者に対しては夫です。わたし自身は変わることはないのですが、その置かれた立場によって役割は変わります。同じことは神についても言えます。同じ神が「父」、「子」、「聖霊」の三つの役割を担っているのです。

 ヨハネはこの世は「暗闇」であると言います。何故なら神が人となってこの世に来られたのに、人はそのお方を神と認めることが出来ず、そればかりかそのお方を十字架につけてしまったからです。聖書はわたしたち人間は自分の力で主イエスを神と信じることが出来ないと教えます。律法学者ニコデモは民の指導者であり聖書の教師でしたが主イエスを神と認めることは出来ませんでした。同じことは主イエスの弟子たちや母マリアにも言えます。彼らが変えられたのは復活の主イエスに出会ったからです。主イエスは彼らに十字架の傷跡をお示しになり、手で触れることすらお赦しになりました。また一緒に食事をされました。主イエスは聖書を開いてご自身が確かにメシアであることを教えられ、四十日後に彼らの目の前で天に上げられました。主イエスは彼らを御自身の復活の証人とされました。それ故、彼らは「使徒」と呼ばれるようになりました。わたしたちもまた主イエスとの出会いがあり、「使徒」たちの証を信じることが出来るようにされたのです。
  主イエスはローマ皇帝アウグストゥスの時、マリアの子としてお生まれになりました。そして、ローマ総督ポンティオ・ピラトの下に苦しみを受け十字架につけられました。神である主イエスは歴史の中に入って来られたのです。しかし、主イエスの復活はこのような歴史的出来事とは違います。主イエスは御自身の復活を弟子たちだけに示されたからです。他の人は見ることは出来ませんでした。使徒たちはあくまで見たことの証人であって、主イエスの復活に関わったということではありません。
  信仰の父アブラハムは暗闇の中で、煙を吐く炉と燃える松明がいけにえの動物の間を通り過ぎられるのを見ました。それは神がアブラハムに立てられた「契約」でしたが、アブラハムはあくまで傍観者であって「契約」に関与したという訳ではありませんでした(創世記一五章一七、一八節)。主イエスもまた、神がわたしたちと結ばれた「契約」となられましたが、それは神御自身がなされたのであって、わたしたち人間は傍観者にすぎません。その契約を信じるかどうかがわたしたちに求められています。

 ヨハネは「独り子としての栄光」を見たと言います。偉大なイスラエルの指導者であったモーセは民をエジプトから約束の地に導くその重荷に耐えかねて主に「(あなたは)わたしと共に遣わされる者をお示しになりません」、「お願いです。…どうか今、あなたの道をお示しください」、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と祈りました。その祈りは千五百年後、主イエスにおいて聞き届けられたのです。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われました(ヨハネ一四章六節)。ヨハネの見た「栄光」、「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちて」いました。「恵み」、それは神ご自身の命でわたしたちの罪を贖って下さったということで、わたしたちにとって、もはや審かれることはないということです。「真理」、それは主イエスがかつておられ、今いまし、これからも永久におられるお方であって、わたしたちと共におられるお方(インマヌエル)ということです。
  これらのことはすべて神から出たことです。わたしたちに出来ることはこの神に感謝し、すべての栄光を神に帰するということだけです。

2011年11月20日日曜日

ヨハネ11章38-44節「ラザロ、出て来なさい」

第139号

〈永眠者記念礼拝〉

出エジプト記33章18-23

  三月十一日の東日本大震災と津波により、多くの方が被災され亡くなられました。また、喪失の悲しみの中にある人たちも多くおられます。そのような方々のために祈りたいと思います。
  川越教会では昨年の永眠者記念礼拝以降、天沼武子姉を天に送りました。五月十四日で、八十五才でした。埼玉県に生まれ、川越で成長されました。川越女子高等学校に入学した翌月の五月に父親を脳溢血で亡くされました。六月から川越教会に出席するようになり、すぐに受洗されました。キリスト教を信じるようになったのは、父親の死がきっかけだと思われます、また当時の川越教会の鈴木不二麿牧師との出会いも大きかったようです。
  多くの人は生は死で終わると思っております。あるいは、肉体は滅んでも魂は生き続けると信じている人もいるかもしれません。今日の聖書の箇所は、主イエスを信じること、復活を信じることはどのようなことかをわたしたちに教えています。

 マルタ、マリア、ラザロの三姉弟はベタニヤという村に住んでいました。弟のラザロが病気になりました。マルタとマリアは直ぐに主イエスに遣いを出しました。ところが主イエスが村に着いた時にはラザロは死に、墓に入れられて既に四日が経っていました。マリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って泣きました。二人の姉にとってラザロの死はどれ程の悲しみであったでしょうか。主イエスも涙を流されました。
 主イエスは墓に着くと石を取りのけるように命じられました。マルタが「四日もたっていますから、もうにおいます」と言うと「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われました。
 「神の栄光が見られる」とはどういうことでしょうか。出エジプト記三三章一八節では、モーセは主に「どうか、あなたの栄光をお示しください」と頼んでいます。それに対し主は、あなたはわたしを見ることはできない。わたしを見て、なお、生きることはできない、と答えています。わたしたち人間に神の栄光を見ることは許されていませんでした。
 この世は神によって創られたのであって、神の世界とは異なります。主イエスは神の世界からこの世に遣わされてきたお方です。主イエスは異なる二つの世界の接点となったのです。しかし、わたしたち人間は主イエスを神と認めることはできません。そのため人々は主イエスが御自身を神としたことに躓きました。それは神への冒涜である、と言って十字架につけました。主イエスはその十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と言われ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。この十字架の出来事こそ「神の栄光」となったのです。
 天の父は御自身の独り子を十字架につけられました。それによってわたしたち人間の罪の身代わりとされたのです。しかし、その時の天の父の気持は、いかばかりであったでしょうか。それは、主イエスのラザロへの気持ちに重なります。そして、それはラザロだけでなく、わたしたちに対する主イエスの気持でもあるのです。ヨハネ三章一六節には「神はその独り子をたまわったほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。主イエスはわたしたちのためにも涙を流されるお方なのです。「神の栄光が見られる」とはこのようなお方が天におられるのを知るということです。

 主イエスの十字架によって、わたしたちの死はこの世の命と永遠の命の接点となりました。十字架を仰ぐとき、主イエスのこの世での働きを覚え、その死の様を思い、今、生きておられることを知ります。人の死の象徴である「墓」もまた、その人のこの世での生を覚え、死の様を思い、永遠の命に想いを馳せるところとなりました。

復活された主イエスを知ること、それは、神の国はもう既にわたしたちのところに到来しているのを知ることです。それによってわたしたちはもう復活に与っているのを知るからです。わたしたちはもう既に新たに生まれ変わっているのです。

主イエスは、「ラザロ、出て来なさい」と言われました。それはわたしたちへの呼びかけでもあります。この世から出て来て、わたしのところに来なさいと言われるのです。主イエスはわたしたちと一緒にこの人生のあらゆる苦しみ、悲しみを天において共にされているのです。そして、わたしたちに永遠の御国に入れられているという喜びを知らされるのです。主イエスの十字架はこのような民を生みました。「この世を旅する共同体」が形成されたのです。それが「教会」です。

2011年10月16日日曜日

マタイ10章34-39節「わたしのために」

第138号
主イエスは「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」と言われました。しかし、主イエスはこの地上に平和をもたらすために来られたのではないのでしょうか。イザヤもまた主イエスについて預言し、このように言っています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」(イザヤ九章五節)。主イエス御自身も山上の説教で「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言っておられます(マタイ五章九節)。主イエスを信じるわたしたちまた、地上に平和をもたらす使命が委ねられているのではないでしょうか。
 主イエスはなぜこのように言われたのでしょうか。主イエスは御自身に従う者たちの中から、特に十二人の弟子を選ばれたとあります。彼らは主イエスに「呼び寄せ」られたのです。それは彼らを世に遣わされるためでした。主イエスは彼らに「汚れた霊に対する権能をお授け」になりましたが、それは「あらゆる病気や患いをいやすため」でした。主イエスは十二弟子たちが迫害されるのを御存知でした。「わたしのために、あなたがたはすべての人に憎まれる」と言われ、「人々を恐れてはならない…体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな、むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われました。この世の本当の主権者は人ではなく、天の父であり、主イエスご自身であることを教えられたのです。

  アフリカでは多くの人たちはイスラムを信じています。そのような中にあってわたしが今回訪ねたガーナ、ガンビア、セネガルの教会ではチャーチ・プランティングと呼ばれる宣教を行っていました。宣教者を二人一組にして村に派遣するのです。彼らはまず長老を訪ね、伝道する許可を得ます。長老は通常、外部の人が来て自分たちの村を活性化するのは良いことと考えます。宣教者たちは一軒、一軒、家を回りマン・オブ・ピース(man of peace)と呼ばれる人を探し出します。神は村に前もって福音に対して心を開く人を用意されているいます。その人を見つけたならその家で家庭集会を持ちます。するとその家に近所の人たちが集まって来るようになり教会が生まれます。
 このような宣教活動は順調に進むとは限りません。しばしばイスラム教徒の反対に会い、その教師たちの抵抗に会います。家で初めてキリストを受け入れた者は、自分の父、母、あるいは自分に最も親しかった者が敵となるのです。
 このようなことが起こるのはアフリカやイスラムの社会だけに限りません。日本や他の西欧諸国でも、またいつの時代にも言えることです。ジョージ・ミューラーは孤児院の父と言われますが、彼が神学生の時、宣教師になることを決心すると父は反対し、学費の仕送りを止めてしましました。父は息子が立派な聖職者になって高給を取り、立派な家に住んでもらいたかったのです。ゆくゆくは息子の家で老後を安楽に暮したいと思っていました。主イエスもまた三十歳になると、伝道の為に家を出ました。主イエスは父ヨセフが亡くなった後、母マリアと一緒に幼い弟や妹のために働いて来ました。母も弟たちもそれが当然と思い、それがいつまでも続くと思っていたのです。彼らは主イエスを家に連れ戻そうとカファルナウムまで追いかけて来ました(マタイ一二章四六~五〇節)。

 主イエスは「わたしよりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」と言われました。イスラエルでは神について教えるのは父母の役目でした。神の言葉を学んだ子は父母を敬ったのです。このような父母を愛するのは当然のことでした。また、子を愛さない親がいるでしょうか。わが子のためであれば自分の命すらいとわないと思うのが普通です。にも拘らず、このような混じりけのない愛すら絶対的に正しいと主張できないのがわたしたち人間でもあるのです。神の被造物であるわたしたちは創造者である神の主権を信じる以外に義はないのです。
 神の愛を信じることは自分や人の愛を信じることとは違います。「自分のいのちを得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と主イエスは言われました。アウグスティヌスの『告白』にも、「わたしは、死ぬことのないように、あなたのみ顔を仰ぎ見るために死のう」と言うのがあります。
 主イエスの言葉は御自身が選ばれた者たちに与えられたもので、十字架によって生涯を終えられた主イエスの生き方に倣うように促すものです。

2011年7月17日日曜日

使徒2章37-42節「悔い改めなさい」

第135号

 
 ペンテコステの日に聖霊が使徒たちに降りました。聖霊によって聖書の真理が明らかにされ、聖書は全て主イエスを証ししていることが知らされました。そして何よりも主イエスが彼らの内に留まられ、彼らを通して働かれるようになったのです。それまでユダヤ人を恐れて部屋に閉じこもっていた使徒らは大胆に福音を述べ伝え始めました。
 ペトロは物音に驚いて集まって来た人たちを前に、他の十一人の使徒たちと共に立って話し始めました。ペトロの説教はヨエル書からの引用で始まります。そこには「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」とあります。聖霊が使徒たちに与えられることは、主イエスが生前に約束されていたことでした。それが成就したことにより、「終わりの時」が始まったのです。この終わりの時は、主イエスの再臨の日までで、その日は「主の日、大いなる恐るべき日」です。しかし、救い主である主イエスを知っているペトロやわたしたちにとっては、「主の偉大な輝かしい日」です。その日はこの世の裁きの日であり、救いの日です。「太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる」のですが、「主の名を呼ぶ者は皆、救われる」のです。
 旧約聖書では神の名は「ヤハウェ」でした。しかしユダヤ人は余りにも恐れ多いその名を口にすることはありませんでした。その代わりに「主」(アドナイ)と呼びました。しかし、ペテロにとって、この神の名は「主イエス」となりました。「主イエス」こそ「ヤハウェ」であることを知ったからです。主イエスの名を呼ぶ者は皆、救われるのです。
 ペトロは続いてダビデの言葉を引用しました。ダビデは預言者なので自分の子孫が王座に就くのを知っていました。ペトロはダビデの言葉を「わたし(主イエス)は、いつも目の前に主(天の父)を見ていた。…あなた(天の父)は、わたし(主イエス)の魂を陰府に捨てておかない」と理解しました。ダビデは死に、墓が彼らのところにありましたが、主イエスは死んで復活され、その墓は空でした。メシアは死ぬことはないのです。

 ペトロはヨエルとダビデの言葉を引用した後、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と言いました。この言葉に集まって来ていた人々は心を打たれました。
 人々は主イエスを罪ありとして裁きました。それは主イエスが安息日を守らず、自分を神の子としていたからです。彼らは主イエスを十字架につけましたが、神の子が木にかけられて死ぬことなどありえませんでした(申命記二一章二三節)。しかし、主イエスは復活されたのです。それは神がこのお方を無実とされたことに他なりません。罪のない者を死に閉じ込めておくことは出来ないからです。主イエスの復活は人々の罪を白日の下にさらしました。わたしたちの罪は主イエスを神の子と認められないことにあります。生前の主を神と認められないことは使徒たちも、主イエスに従った女たちも皆、同じでした。彼らは主イエスを神から遣わされた人として理解していたのです。罪とは、わたしたちの犯す一つ一つの行為を指すのではなく、主イエスを神と認められないことにあるのです。聖霊だけがこのようなわたしたちの罪を明らかにされるのです。
 固い心を砕かれた人々は使徒たちに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と言い、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めました。そのペトロの言葉に従って三千人が洗礼を受けました。

 旧約聖書の時代、油を注がれ、神から聖霊を受けることが出来たのは、王、預言者、祭司だけでした。しかし、今や「悔い改めて」主イエスのところに来る者は、誰でも聖霊を受けることが出来るようになりました。老若男女、地位、名誉、財産のあるなしは関係ありません。また、ユダヤ人と異邦人の区別もなくなりました。
 「主の名を呼び求める者は皆、救われるのです」。今こそ恵みの時、救いの時です。しかし、聖霊を受けない限り主を救い主と告白出来ません。生まれたままのわたしたちは主イエスを神の子と認めることは出来ないからです。
 わたしたちは自分の判断、善悪の基準に従って生きています。このような生き方からの決別が求められています。同様に、物質的な豊かさ快適な生活、便利さの中にわたしたちの求める幸せはありません。本当の幸せは神によって与えられる霊的な幸せなのです。神中心の生活に代わらなければなりません。主イエスを神の子と信じ、全てを捨ててその前に膝まづくことです。そのように決心するすべての人に聖霊が授けられるのです。

2011年6月19日日曜日

使徒2章1-13節「一同は聖霊に満たされて」

第134号

 
 主イエスは過越祭の時に十字架につけられ、三日目に死から甦られました。復活した主イエスは四〇日に亘って弟子たちに御自身を示され、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と言われ、彼らの見ている前で天に上げられました(使徒一章四、五節)。
 五旬祭の日が来て、弟子たちはエルサレムにある家の二階に集まり鍵を閉めていました。彼らはユダヤ人を恐れていたのです。すると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が現れ、一人ひとりの上に留まりました。一行は聖霊に満たされ、「霊」が語らせるままに、様々な国の言葉で話しだしました。五旬祭には世界各国からユダヤ人たちがエルサレムに来ていました。彼らはこの出来事に驚いて集まって来ました。そして弟子たちが自分たちの故郷の言葉で神の御業を語っているのを不思議に思ったのです。しかしある者たちは「新しい酒に酔っているのだ」と言いました。
 過越祭はイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトの地を出たのを記念して行うようになりました。エジプトで奴隷だったユダヤ人にとって過越祭は民族の誕生を祝う日でした。荒野に出て行ったイスラエルの民は五〇日後にシナイ山で神から律法を与えられました。それを記念するのが五旬祭で、律法によって生きる信仰の民、イスラエルの誕生を祝う日です。
 キリスト教徒にとって、過越祭は主イエスの甦りを祝う復活祭(イースター)になり、五旬祭は教会の誕生を祝う聖霊降誕日(ペンテコステ)となりました。

 主イエスとニコデモの対話に見られるように誰でも霊によって新しく生まれなければ神の国に入ることは出来ません(ヨハネ三章参照)。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって」と書いてあるとおりです(Ⅰコリント五章一七節)。
 聖霊だけがわたしたちに命を与えます。神は土でアダムを形づくり、「命の息を吹き入れられ」ました(創世記二章七節)。同じように主イエスもまた弟子たちに御自身の息を吹きかけられ「聖霊を受けなさい」と言われました(ヨハネ二〇章二二節)。それによって初めてわたしたちは命を得ることが出来るのです。主イエスと同じように復活し、御国に入ることが許されるのです。
 教会の誕生は主イエスの誕生と比べられます。主イエスの母マリアはまだ結婚する前に天使ガブリエルから、聖霊によって男の子が生まれる、と告げられました(ルカ一章三五節参照)。弟子たちも主イエスに、あなたがたは間もなく聖霊を受ける、と言われました(使徒一章五節参照)。いずれも神の約束の成就であって、わたしたちの努力や信仰の結果ではなく、神御自身が働かれたのです。

 聖霊を与えられる前の弟子たちのように、わたしたちもまた、心の扉に鍵をかけ、自分の殻に閉じこもっているのではないでしょうか。わたしたちは自我という生まれつき頑固で固い石の心を持っています。自分で自分の石の心を砕くことが出来ません。
 そのような中にあって弟子たちは、主イエスの約束されたものが与えられるようにと、皆「心を合わせて熱心に祈って」いました(使徒一章一四節)。そして、聖霊を与えられることによって初めて彼らは変えられたのです。同じことがわたしたちにも言えます。教会が本来の教会となるためには先ず、聖霊に満たされるよう祈ることから始めなければならないのではないでしょうか。
 聖霊によらなければだれも「イエスは主である」とは言えません(Ⅰコリント一二章三節)。聖霊が与えられて、初めて主イエスがどのようなお方であるかを知るようになります。そして、御言葉がそのまま素直に心に入って来るようになります。神の国の民の一員にされるからです。それまで外国語で書かれているようであった聖書が自分の国の言葉として書かれているのを知るようになるのです。同じように、御言葉を聞く人たちも自分の国の言葉として理解するようになります。そこにはもはや人種や民族の違いはありません。
 「一同は聖霊に満たされて」、初めて教会に人が集まって来ました。同じことがわたしたちにも言えるのではないでしょうか。教会の使命は御言葉を述べ伝えることにあります。それは「あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい」という、今年の教会標語でもあります。

 

2011年5月15日日曜日

出エジプト記3章1-10節「今、行きなさい」

第133号

 
 創世記は天地の創造で始まり、エジプトに下ったヤコブとヨセフの死で終わっています。出エジプト記はモーセの誕生から幕屋の完成までが記されています。創世記と出エジプト記の間にはおよそ三百年の時間の隔たりがあります。通常でしたら、七〇人に満たないヤコブの一家はそのような長い年月の間に、エジプト人に同化してしまったのではないでしょうか。しかしそのようにはなりませんでした。その理由として幾つか考えられます。先ず、人種の違いです。ユダヤ人はセム系で、エジプト人はハム系でした。次に、住んでいる場所も別でした。イスラエルの人たちはゴシエンの地に寄留していました。彼らは羊を飼っていましたが、それはエジプト人にとっては忌むべき仕事でした。イスラエルの人たちは彼らの先祖であるアブラハムに与えられた神の約束を信じていました(創世記一二:一~三)。ヨセフは死を目前にし、神は必ずイスラエルの民をエジプトからカナンの地に連れ戻して下さること、そしてその時には自分の骨を持ちだし先祖の墓に入れるようにと言い遺しました。従ってその間、ヨセフの棺はエジプトでイスラエルの民と共にあったのです。そのようなことを母親から子へと語り継がれていきました。

 ヤコブがエジプトに下った時代が去り、ファラオが新しい王朝に代わると彼らは奴隷とされました。彼らは厳しい使役に就かされピトムやラムセスなどの町の建設に駆り出されました。この過酷な労働の中でイスラエルの人たちは増え続け、三百万人を数えるまでになりました。ファラオは彼らに脅威を抱き、生まれて来る男の子を殺すように命じました。まさしくイスラエルの民の滅亡の危機でした。
 モーセが生まれたのはそのような時でした。母親は三カ月まで隠し育てましたが、遂に隠し通せなくなり、籠を作り、その子を入れてナイル川の葦の中に置きました。ファラオの娘がその籠を見つけ、中で泣いている子を自分の子として育てました。
 モーセは成人になると、自分の民の置かれた現実に心を痛めるようになりました。そして、何不自由のない王宮での生活を捨てて、同胞のために生きる決心をしました。しかし、イスラエルの民は彼に従いませんでした。ファラオへの反逆者となった彼は遠くミディアンの地に逃れました。そこで祭司エトロの家に入って、彼の羊を飼うことになりました。そして、エトロの娘と結婚し、二人の子をもうけました。
 羊飼いは通常五〇匹から一〇〇匹の羊を養いながら旅を続けます。どこに行くかを決め、危険が及べば自分一人で対応しなければなりません。また、羊飼いには自分の羊への愛情と忍耐が何よりも必要でした。
 遠いミディアンの地で羊を飼っていてもエジプトの情報は入って来ました。そこにいる同胞の悲惨な生活を耳にするたびにモーセは心を痛めました。しかし、彼は既に人生の敗北者でした。エジプトの王ファラオの家族の一員として必要な学問は全て身につけていたにもかかわらず、少しもそれを生かせずにいました。そして四〇年の歳月が流れたのです。しかし、これもまた神の御計画でした。このような生活が、その後の彼の歩みにとって宮廷での学びと同じように、いやそれ以上に、役に立ったのです。

 モーセは羊を飼いながらホレブの山に来ました。その時、柴が燃えているのが目に入りました。柴はいつまでも燃え尽きません。不思議に思って近づくと、「モーセ、モーセ」と呼ぶ声がありました。これがモーセにとって神との出会いでした。神はこのようにモーセに御自身を顕現され、「今、行きなさい。わたしがあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と言われました。
 「今」、まさしくそれは神の時でした。イスラエルの民の新たな出発の時でもあったのです。昔、カナンに飢饉が襲った時は、ヤコブの家族の生存の危機でしたが、同時に、エジプトに下る時でもありました。「行きなさい」、それはモーセに決断を促す言葉でした。モーセの目を御自分に向かせると同時に、イスラエルの民にも向かせたのです。モーセにとってイスラエルの民のために立ちあがるには、乗り越えなければならない壁は余りにも高かったのです。かつて彼らはモーセを自分たちの指導者にすることを拒否しました。ファラオも彼を殺そうとしました。そして今、モーセには妻と二人の息子がいる上、義父エトロを養っているのです。しかも、モーセは既に八〇歳でした。神はこのようなモーセの全てを御存じの上で、「今、行きなさい」とエジプトに行くことを命じられたのです。
 「今、行きなさい」、この御言葉はモーセだけにではなく、わたしたちキリスト者にも向けられているのです。この言葉を聞くことなしに、主イエスに従うことは出来ません。

2011年4月17日日曜日

創世記47章1-12節「わたしの生涯の年月」

第132号

 ファラオとヤコブとの会見は短い時間ながら印象的な場面となっています。ファラオはエジプトの王でしたが、ヤコブは一介の族長にすぎませんでした。普通であればこのような会見は実現しなかったことでしょう。全てはヨセフの力によるものでした。ファラオはヨセフに惜しみない好意を示しています。「エジプトの国のことはお前に任せてある」と言い、「最も良い土地に父上と兄弟たちを住まわせるがよい。ゴシエンの地に住まわせるのもよかろう。もし一族の中に有能な者がいるなら、私の家畜の監督をさせるがよい」とまで言っています。ファラオはヨセフの父にも親しみを見せます。

 会見でファラオはヤコブに「あなたは何歳におなりですか」と聞いています。どこの国でも長生きは神の祝福です。特にエジプトではそのように考えられていました。また、人は生き様が年齢と共に外面に表れて来るものです。ファラオは立っているヤコブの風貌に強い印象を受けたと思われます。
 ヤコブはその問いに対し「わたしの旅路の年月は一三〇年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみは多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」と答えました。
 祖父アブラハムの生涯は一七五歳、父イサクは一八〇歳でした。神はアブラハムに三つの約束をしました。子孫と土地を与えること、全ての人の祝福の源になるということでした。族長たちはその約束に生きたのです。
 ヤコブも同じでした。彼は若い時、兄エサウから長子の権と父の祝福を奪い、父の財産を自分のものとしました。しかし、それによって兄の怒りを買い、ハランの地に逃れなければなりませんでした。父の家を出た時、持っていたのは杖一本だけでした。ハランでは伯父ラバンのもとに身を寄せ、そこで結婚し、二〇年の歳月を送りました。その間、ヤコブは狡猾な方法を用いてラバンの家畜の多くを自分のものとしました。ラバンはヤコブを欺きましたがそれ以上にヤコブもまた伯父を欺いたのです。しかし、郷里のカナンに戻る時、兄に財産や家族だけでなく、自分の命すら差し出しました。エサウはそれらを受け取りませんでした。長い別離の年月が兄を変え、弟に対する怒りは収まっていたのです。
 ヤコブは四人の妻を持ちましたが、ラケルだけを愛しました。しかしその妻をベニヤミンが生まれる時に失いました。また息子たちの内、ラケルが生んだヨセフだけを偏愛しましたが、その息子を失いました。兄たちが、父が弟ヨセフだけを溺愛するのを妬んだためでした。
 ヤコブは富と愛に執着して生きて来ました。しかし、結局その全てを失ったのです。神の約束がこの世で成就すると信じていたが故に、ヤコブ自身が告白するように「わたしの生涯の年月」は短かったのです。ヤコブほど苦しみ、悲しんだ人は多くないのではないでしょうか。
 ヨセフがいなくなってから二〇年の歳月が流れ、ヤコブは息子たちからヨセフが生きていることを告げられました。それを信じた時、彼の魂は生き返りました。心の目が開かれたのです。ヨセフを生かし、エジプトに遣わし、宰相としたのは神御自身だったのです。飢饉に苦しんでいたヤコブの一族をエジプトに導き、そこで大いなる民とし、カナンの地に再び戻される、それが神の御計画でした(創世記四七章三、四節)。神はそのためにヤコブの欠点や息子たちの罪をも用いられたのです。それらの一つ一つが細い一本の綱で結ばれて事が運ばれていきました。ペヌエルやヤボクの渡しでヤコブに顕現された神は真実なお方でした。族長たちは神からの約束を受け、信じて待ち続けるのですが、すぐに実現しないことが分かるにつれ悲しみ苦しむようになるのです。しかし、成就されるのは神ご自身です。そして、この世ではなく永遠の命に生きることが大切であることを知るようになるのです。

 この会見でヤコブはファラオを二度祝福しています。共同訳聖書では「祝福の言葉を述べた」と言い、「別れの挨拶」をしたとあります。いずれも「祝福した」と同じ意味です。英語の聖書には「ヤコブはファラオを祝福した」と簡潔に訳されています(NIV)。ファラオは高齢であるヤコブの祝福を喜んで受けたことでしょう。しかし、祝福は持っている者が持っていない者に対してするのです。ファラオはエジプトの王であり、エジプトの神々を代表していました。それに対し、ヤコブは寄留者にすぎませんでした。本来であればファラオがヤコブを祝福するのです。しかし、この世で何も持たない者が永遠の命を持つのです。この世に執着する者は永遠の命を持たないのです。聖書はこのことをわたしたちに教えています。
 ヤコブはファラオを祝福しました。神の聖なる民を代表してエジプトの王ファラオに神の加護があることを祈ったのです。

2011年2月20日日曜日

ヨハネ4章7-26節「わたしが与える水」

第130号

 主イエスの時代、カナンの地はユダヤ、サマリア、ガリラヤの三つの行政区に分かれていました。主イエスはガリラヤのナザレで育ち、三十歳の公生涯の始まりと同時にカファルナウムを伝道の本拠地にされました。サマリアはかつてのイスラエル、つまり北王国で、七二二年にアッシリアに滅ぼされました。その時、多くの異民族が入植者として入って来ました。彼らはモーセの五書だけを信じ、紀元前四三二年にはエルサレムの神殿に対抗してゲリジム山に自分たちの神殿を造りました。ユダヤはかつての南王国ユダでした。ユダもまた五八七年にバビロニアによって滅ぼされました。
 しかしながらユダヤとサマリアは、以前は兄弟であったにも関わらず親しく交わることはありませんでした。

 主イエスはユダヤからガリラヤに行こうとされました。ヨルダン川はガラテヤ湖から死海に注いでいますが、その長さは蛇行しているため三百キロぐらいあります。直線にすると百キロと少々です。この川と地中海の間にサマリアの町シカルがありました。ゲリジム山の北側斜面にあり、町はずれには彼らの族長ヤコブが掘った井戸がありました。
 主イエスは「旅に疲れ」井戸のそばに座られました。その時、女が井戸に水を汲みに来ました。弟子たちは食事を買いに行っていました。普通、女たちは朝一番に水を汲むのですが、このような昼下がりに来たのは他の女たちと顔を合わせたくなかったからでしょう。
 その女に主イエスは「水を飲ませてください」と声をかけられました。女は驚き「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言いました。すると主イエスは「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことだろう」と言われました。
 女はこの男が誰であるかを知りませんでしたし、神御自身であるとは考えてもみませんでした。女は「あなたはわたしたちの父、ヤコブよりも偉いのですか」と尋ねました。ヤコブはその時代より千七百年ぐらい前の人です。それ以来この井戸は人々や家畜に水を与え続けて来ました。そのヤコブとあなたとでは比較出来ない、というのです。主イエスは「この水を飲む者は、だれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命にいたる水がわき出る」と答えられました。そして、この女の罪を言い当てることにより、御自身が誰であるかを示されました。それは神しか出来ないことで、女にとって確かな「しるし」となったのです。

わたしたちは、井戸のそばで疲れて座っているお方が神であると分かれば直ぐに駆けつけ、いくらでも水を汲んで差し上げたことでしょう。しかし、主イエスの方からわたしたちに御自身を啓示されない限り、このことはわたしたちの目に隠されているのです。神が人となられ、しかも旅に疲れ、のどを渇かせ、「水を飲ませてください」と言われるということは信じられないことです。神であるなら自分でその必要を満たすことが出来るはずです。神はあくまでわたしたちの必要を満たしてくださる存在なのです。
 それではなぜ主イエスは貧しく弱くなってわたしたちのところに来られたのでしょうか。家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされ、またヨセフが死んだ後、残された家族を支えるために大工となられ生活の苦労をされました。公生涯に入られてからは枕する家もありませんでした。そしてその最後は弟子たちにさえ裏切られ十字架に付けられました。このような主イエスの御生涯で、この方が神であると認めるのは困難です。
 わたしたちは神の愛、強さ、偉大さの中に主イエスを見い出そうとします。そのような神を信じることにより、自分もまた少しは今よりましな者になろうと思うのです。何かより大きなことをして、世の中に貢献できたらと思うのです。しかし、主イエスがわたしたちに求めているのはそのような人生ではありません。
 主イエスは「あなた方の最も小さい者に水を与えるならそれはわたしに与えるのである」と言われました(参照、マタイ二五:三一~四六)。そして、主イエスは亡くなる前、十字架の上で「乾く」と言われました。それは「わたしに水を飲ませてください」という意味です。主イエスがわたしたちに求めているのは、わたしたちの周りにいる最も小さなものに仕えなさいと言うことです。それによって彼らの中に主イエスを見ることが出来るようになるのです。そして、主イエスが言われる「わたしの与える水」がわたしにも注がれているのが分かるのです。

2011年1月16日日曜日

黙示録21章9-21節「都は神の栄光に輝いていた」

第129号

 ヨハネは二度に亘って「聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見た」と言っています。一度目は地上の平地で見ていたと思われますが、二度目は高い山から見たのです。この光景は主がモーセをピスガの頂に導き、カナンの地を全て見渡されるようにされた出来事と重なります。そこで主はモーセにこのように言われています。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」(申命記三四:四)。
 今日でも、オリブ山から見るエルサレムの全景は美しいものです。町のほぼ中央に岩のドームがあります。ドームは金伯で覆われ、周りの家々はこの地で産出される少し赤みをおびた石で造られています。夕日を浴びると町全体が黄金色に輝くのです。
 ヨハネが見た聖なる都エルサレムの大きさは正方形で、人間の物差しで一辺が一万二千スタディオンでした。十二はユダヤでは完全数で、その千倍です。一スタディオンは一八五メートルなので二千二百キロメートルになります。エルサレムからバビロンまで約八百キロ、ローマまでは千五百キロです。日本ですと北は北海道から南は沖縄まで、そして西は中国の北京までとなります。平面だけでなく高さも同じだけあるのです。新しい都エルサレムはわたしたちが考えるよりずつと大きいのです。そしてこの都の大通りは、透き通ったガラスのような純金でした。
 この聖なる都エルサレムが天から下って来るのを見た時、ヨハネは玉座から語りかける大きな声を聞きました。「見よ、神の幕屋が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録二一:三、四)。
 幕屋はモーセがシナイ山で示されたものの型です。幕屋の内側は金で覆われ、ローソクがその明かりでした。至聖所の大きさは一辺が一〇アンマの正方形でした。一アンマは〇.四五メートルですから、四.五メートルとなります。至聖所には契約の箱があり、その上にはケルビムが置かれていました。ケルビムは神の臨在の象徴でした。
 この至聖所の一辺の長さを約五〇万倍したのが聖なる都エルサレムで、主イエスがこの都を照らす明かりです。

 天使はヨハネに「ここに来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう」と言って聖なる都エルサレムが天から下って来るのを見せました。小羊とは主イエスのことで、花嫁は聖なる都エルサレムのことです。加藤常昭先生は著書「ヨハネの黙示録」でこの都は「明らかに将来のキリスト教会の姿です」と言っています(日本キリスト教団出版局、一一三頁)。礼拝という観点から見るならこの都は確かに「教会」だと思うのです。この教会は神の栄光に輝いていました。この世にある時、教会はこのように輝いていませんでした。それは生前の主イエスと同じです。主イエスが神の栄光で輝いていたのなら人々は十字架につけるようなことはしなかったでしょう。主イエスが神の子であることは隠されていたのです。同じように教会もその栄光はこの世では人々の前に隠されています。しかし、聖なる都エルサレムとして現れる時、その隠されていた栄光はこのように輝き出るのではないでしょうか。同じことはわたしたちにも言えます。わたしたちも死んで滅んだ後、聖なる都エルサレムの住民にふさわしい栄光の姿となって復活するのです。
 この聖なる都エルサレムを囲む城壁の高さは一四四ぺキスで、完全数十二の十二倍です。ぺキスはアンマと同じ〇、四五メートルですから、六五メートルです。非常に高い城壁ですが、この都の大きさと比べると線にすぎなくなります。

  ヨハネが見た聖なる都は神の栄光に輝いていました。その輝きは主イエスの輝きです。主イエスは十字架につけられる前、このように祈られました。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせて下さい。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」。
 主イエスの国はこの世には属していません。「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったであろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」と言われています(ヨハネ一八:三六)。
 わたしたちを罪から清めこの聖なる都エルサレムの住民にすることこそ、天の父が御子イエスをこの世に遣わされたことです。わたしたちは主イエスと共にこの新しい天と新しい地に永遠に住むことになるのです。