第130号
主イエスの時代、カナンの地はユダヤ、サマリア、ガリラヤの三つの行政区に分かれていました。主イエスはガリラヤのナザレで育ち、三十歳の公生涯の始まりと同時にカファルナウムを伝道の本拠地にされました。サマリアはかつてのイスラエル、つまり北王国で、七二二年にアッシリアに滅ぼされました。その時、多くの異民族が入植者として入って来ました。彼らはモーセの五書だけを信じ、紀元前四三二年にはエルサレムの神殿に対抗してゲリジム山に自分たちの神殿を造りました。ユダヤはかつての南王国ユダでした。ユダもまた五八七年にバビロニアによって滅ぼされました。しかしながらユダヤとサマリアは、以前は兄弟であったにも関わらず親しく交わることはありませんでした。
その女に主イエスは「水を飲ませてください」と声をかけられました。女は驚き「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言いました。すると主イエスは「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことだろう」と言われました。
女はこの男が誰であるかを知りませんでしたし、神御自身であるとは考えてもみませんでした。女は「あなたはわたしたちの父、ヤコブよりも偉いのですか」と尋ねました。ヤコブはその時代より千七百年ぐらい前の人です。それ以来この井戸は人々や家畜に水を与え続けて来ました。そのヤコブとあなたとでは比較出来ない、というのです。主イエスは「この水を飲む者は、だれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命にいたる水がわき出る」と答えられました。そして、この女の罪を言い当てることにより、御自身が誰であるかを示されました。それは神しか出来ないことで、女にとって確かな「しるし」となったのです。
わたしたちは、井戸のそばで疲れて座っているお方が神であると分かれば直ぐに駆けつけ、いくらでも水を汲んで差し上げたことでしょう。しかし、主イエスの方からわたしたちに御自身を啓示されない限り、このことはわたしたちの目に隠されているのです。神が人となられ、しかも旅に疲れ、のどを渇かせ、「水を飲ませてください」と言われるということは信じられないことです。神であるなら自分でその必要を満たすことが出来るはずです。神はあくまでわたしたちの必要を満たしてくださる存在なのです。
それではなぜ主イエスは貧しく弱くなってわたしたちのところに来られたのでしょうか。家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされ、またヨセフが死んだ後、残された家族を支えるために大工となられ生活の苦労をされました。公生涯に入られてからは枕する家もありませんでした。そしてその最後は弟子たちにさえ裏切られ十字架に付けられました。このような主イエスの御生涯で、この方が神であると認めるのは困難です。わたしたちは神の愛、強さ、偉大さの中に主イエスを見い出そうとします。そのような神を信じることにより、自分もまた少しは今よりましな者になろうと思うのです。何かより大きなことをして、世の中に貢献できたらと思うのです。しかし、主イエスがわたしたちに求めているのはそのような人生ではありません。
主イエスは「あなた方の最も小さい者に水を与えるならそれはわたしに与えるのである」と言われました(参照、マタイ二五:三一~四六)。そして、主イエスは亡くなる前、十字架の上で「乾く」と言われました。それは「わたしに水を飲ませてください」という意味です。主イエスがわたしたちに求めているのは、わたしたちの周りにいる最も小さなものに仕えなさいと言うことです。それによって彼らの中に主イエスを見ることが出来るようになるのです。そして、主イエスが言われる「わたしの与える水」がわたしにも注がれているのが分かるのです。