2011年5月15日日曜日

出エジプト記3章1-10節「今、行きなさい」

第133号

 
 創世記は天地の創造で始まり、エジプトに下ったヤコブとヨセフの死で終わっています。出エジプト記はモーセの誕生から幕屋の完成までが記されています。創世記と出エジプト記の間にはおよそ三百年の時間の隔たりがあります。通常でしたら、七〇人に満たないヤコブの一家はそのような長い年月の間に、エジプト人に同化してしまったのではないでしょうか。しかしそのようにはなりませんでした。その理由として幾つか考えられます。先ず、人種の違いです。ユダヤ人はセム系で、エジプト人はハム系でした。次に、住んでいる場所も別でした。イスラエルの人たちはゴシエンの地に寄留していました。彼らは羊を飼っていましたが、それはエジプト人にとっては忌むべき仕事でした。イスラエルの人たちは彼らの先祖であるアブラハムに与えられた神の約束を信じていました(創世記一二:一~三)。ヨセフは死を目前にし、神は必ずイスラエルの民をエジプトからカナンの地に連れ戻して下さること、そしてその時には自分の骨を持ちだし先祖の墓に入れるようにと言い遺しました。従ってその間、ヨセフの棺はエジプトでイスラエルの民と共にあったのです。そのようなことを母親から子へと語り継がれていきました。

 ヤコブがエジプトに下った時代が去り、ファラオが新しい王朝に代わると彼らは奴隷とされました。彼らは厳しい使役に就かされピトムやラムセスなどの町の建設に駆り出されました。この過酷な労働の中でイスラエルの人たちは増え続け、三百万人を数えるまでになりました。ファラオは彼らに脅威を抱き、生まれて来る男の子を殺すように命じました。まさしくイスラエルの民の滅亡の危機でした。
 モーセが生まれたのはそのような時でした。母親は三カ月まで隠し育てましたが、遂に隠し通せなくなり、籠を作り、その子を入れてナイル川の葦の中に置きました。ファラオの娘がその籠を見つけ、中で泣いている子を自分の子として育てました。
 モーセは成人になると、自分の民の置かれた現実に心を痛めるようになりました。そして、何不自由のない王宮での生活を捨てて、同胞のために生きる決心をしました。しかし、イスラエルの民は彼に従いませんでした。ファラオへの反逆者となった彼は遠くミディアンの地に逃れました。そこで祭司エトロの家に入って、彼の羊を飼うことになりました。そして、エトロの娘と結婚し、二人の子をもうけました。
 羊飼いは通常五〇匹から一〇〇匹の羊を養いながら旅を続けます。どこに行くかを決め、危険が及べば自分一人で対応しなければなりません。また、羊飼いには自分の羊への愛情と忍耐が何よりも必要でした。
 遠いミディアンの地で羊を飼っていてもエジプトの情報は入って来ました。そこにいる同胞の悲惨な生活を耳にするたびにモーセは心を痛めました。しかし、彼は既に人生の敗北者でした。エジプトの王ファラオの家族の一員として必要な学問は全て身につけていたにもかかわらず、少しもそれを生かせずにいました。そして四〇年の歳月が流れたのです。しかし、これもまた神の御計画でした。このような生活が、その後の彼の歩みにとって宮廷での学びと同じように、いやそれ以上に、役に立ったのです。

 モーセは羊を飼いながらホレブの山に来ました。その時、柴が燃えているのが目に入りました。柴はいつまでも燃え尽きません。不思議に思って近づくと、「モーセ、モーセ」と呼ぶ声がありました。これがモーセにとって神との出会いでした。神はこのようにモーセに御自身を顕現され、「今、行きなさい。わたしがあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と言われました。
 「今」、まさしくそれは神の時でした。イスラエルの民の新たな出発の時でもあったのです。昔、カナンに飢饉が襲った時は、ヤコブの家族の生存の危機でしたが、同時に、エジプトに下る時でもありました。「行きなさい」、それはモーセに決断を促す言葉でした。モーセの目を御自分に向かせると同時に、イスラエルの民にも向かせたのです。モーセにとってイスラエルの民のために立ちあがるには、乗り越えなければならない壁は余りにも高かったのです。かつて彼らはモーセを自分たちの指導者にすることを拒否しました。ファラオも彼を殺そうとしました。そして今、モーセには妻と二人の息子がいる上、義父エトロを養っているのです。しかも、モーセは既に八〇歳でした。神はこのようなモーセの全てを御存じの上で、「今、行きなさい」とエジプトに行くことを命じられたのです。
 「今、行きなさい」、この御言葉はモーセだけにではなく、わたしたちキリスト者にも向けられているのです。この言葉を聞くことなしに、主イエスに従うことは出来ません。