第134号
五旬祭の日が来て、弟子たちはエルサレムにある家の二階に集まり鍵を閉めていました。彼らはユダヤ人を恐れていたのです。すると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が現れ、一人ひとりの上に留まりました。一行は聖霊に満たされ、「霊」が語らせるままに、様々な国の言葉で話しだしました。五旬祭には世界各国からユダヤ人たちがエルサレムに来ていました。彼らはこの出来事に驚いて集まって来ました。そして弟子たちが自分たちの故郷の言葉で神の御業を語っているのを不思議に思ったのです。しかしある者たちは「新しい酒に酔っているのだ」と言いました。
過越祭はイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトの地を出たのを記念して行うようになりました。エジプトで奴隷だったユダヤ人にとって過越祭は民族の誕生を祝う日でした。荒野に出て行ったイスラエルの民は五〇日後にシナイ山で神から律法を与えられました。それを記念するのが五旬祭で、律法によって生きる信仰の民、イスラエルの誕生を祝う日です。
キリスト教徒にとって、過越祭は主イエスの甦りを祝う復活祭(イースター)になり、五旬祭は教会の誕生を祝う聖霊降誕日(ペンテコステ)となりました。
教会の誕生は主イエスの誕生と比べられます。主イエスの母マリアはまだ結婚する前に天使ガブリエルから、聖霊によって男の子が生まれる、と告げられました(ルカ一章三五節参照)。弟子たちも主イエスに、あなたがたは間もなく聖霊を受ける、と言われました(使徒一章五節参照)。いずれも神の約束の成就であって、わたしたちの努力や信仰の結果ではなく、神御自身が働かれたのです。
聖霊によらなければだれも「イエスは主である」とは言えません(Ⅰコリント一二章三節)。聖霊が与えられて、初めて主イエスがどのようなお方であるかを知るようになります。そして、御言葉がそのまま素直に心に入って来るようになります。神の国の民の一員にされるからです。それまで外国語で書かれているようであった聖書が自分の国の言葉として書かれているのを知るようになるのです。同じように、御言葉を聞く人たちも自分の国の言葉として理解するようになります。そこにはもはや人種や民族の違いはありません。
「一同は聖霊に満たされて」、初めて教会に人が集まって来ました。同じことがわたしたちにも言えるのではないでしょうか。教会の使命は御言葉を述べ伝えることにあります。それは「あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい」という、今年の教会標語でもあります。