2011年12月18日日曜日

ヨハネ1章14-18節「その栄光を見た」

第140号

 出エジプト記33章12-23

  「言」はギリシャ語でロゴスです。著者ヨハネは「言」(ロゴス)の概念を用いて、主イエスがどのようなお方であるかを教えます。「言」は耳で聞きますが、頭の中で考えることも「言」です。そして「言」は心で聞くことも出来ます。心の内から聞こえて来る良心の声、そして外から「あなたはどこにいるのか」と問いかけてくる声です。サウルはダマスコに行く途上、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの「言」を聞きました。旧約聖書の預言者もそのような神の「言」を聞きました。わたしたちもまた神の声を聞くことが出来るのです。ヨハネは神の「言」が人となられた、それがイエス・キリストであると言います。
  ヨハネは「神」と「言」を区別しますが、「聖霊」はわたしたちにこの「言」が神であることを証します。それ故、神は「三位一体」なのです。三位一体の概念を説明することは難しいですが、次のように例えることが出来ます。わたしは親に対しては子で、子に対しては親です。そして配偶者に対しては夫です。わたし自身は変わることはないのですが、その置かれた立場によって役割は変わります。同じことは神についても言えます。同じ神が「父」、「子」、「聖霊」の三つの役割を担っているのです。

 ヨハネはこの世は「暗闇」であると言います。何故なら神が人となってこの世に来られたのに、人はそのお方を神と認めることが出来ず、そればかりかそのお方を十字架につけてしまったからです。聖書はわたしたち人間は自分の力で主イエスを神と信じることが出来ないと教えます。律法学者ニコデモは民の指導者であり聖書の教師でしたが主イエスを神と認めることは出来ませんでした。同じことは主イエスの弟子たちや母マリアにも言えます。彼らが変えられたのは復活の主イエスに出会ったからです。主イエスは彼らに十字架の傷跡をお示しになり、手で触れることすらお赦しになりました。また一緒に食事をされました。主イエスは聖書を開いてご自身が確かにメシアであることを教えられ、四十日後に彼らの目の前で天に上げられました。主イエスは彼らを御自身の復活の証人とされました。それ故、彼らは「使徒」と呼ばれるようになりました。わたしたちもまた主イエスとの出会いがあり、「使徒」たちの証を信じることが出来るようにされたのです。
  主イエスはローマ皇帝アウグストゥスの時、マリアの子としてお生まれになりました。そして、ローマ総督ポンティオ・ピラトの下に苦しみを受け十字架につけられました。神である主イエスは歴史の中に入って来られたのです。しかし、主イエスの復活はこのような歴史的出来事とは違います。主イエスは御自身の復活を弟子たちだけに示されたからです。他の人は見ることは出来ませんでした。使徒たちはあくまで見たことの証人であって、主イエスの復活に関わったということではありません。
  信仰の父アブラハムは暗闇の中で、煙を吐く炉と燃える松明がいけにえの動物の間を通り過ぎられるのを見ました。それは神がアブラハムに立てられた「契約」でしたが、アブラハムはあくまで傍観者であって「契約」に関与したという訳ではありませんでした(創世記一五章一七、一八節)。主イエスもまた、神がわたしたちと結ばれた「契約」となられましたが、それは神御自身がなされたのであって、わたしたち人間は傍観者にすぎません。その契約を信じるかどうかがわたしたちに求められています。

 ヨハネは「独り子としての栄光」を見たと言います。偉大なイスラエルの指導者であったモーセは民をエジプトから約束の地に導くその重荷に耐えかねて主に「(あなたは)わたしと共に遣わされる者をお示しになりません」、「お願いです。…どうか今、あなたの道をお示しください」、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と祈りました。その祈りは千五百年後、主イエスにおいて聞き届けられたのです。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われました(ヨハネ一四章六節)。ヨハネの見た「栄光」、「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちて」いました。「恵み」、それは神ご自身の命でわたしたちの罪を贖って下さったということで、わたしたちにとって、もはや審かれることはないということです。「真理」、それは主イエスがかつておられ、今いまし、これからも永久におられるお方であって、わたしたちと共におられるお方(インマヌエル)ということです。
  これらのことはすべて神から出たことです。わたしたちに出来ることはこの神に感謝し、すべての栄光を神に帰するということだけです。