第142号
しかしパウロにとって本当の敵は、内なる敵でした。パウロはフィリピの人たちに「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています」と言っています。それはキリストを宣べ伝える福音のための戦いで、それに「ふさわしい生活を送りなさい」と勧めていることでもありました。大切なのは自分のことではなくキリストなのです。パウロは自分の投獄が「かえって福音の前進に役立」ったこと、そして自分がどのような目に会ったとしても「キリストが公然とあがめられるようにと切に願」っていると言います。
フィリピの人たちにとってパウロの投獄は理不尽なことであったに違いありません。なぜ、このような目に遭わなければならないのかと問い、一日も早く自由の身になるように望んでいたことでしょう。しかし、神にはその祈りは通じませんでした。わたしたちは簡単に神のなさることに善悪の判断をつけることは出来ません。
あらゆる生きものの中で人間だけが善悪を判断します。しかし、その判断はあくまで経験と知識によるものであって、その判断が正しく出来るとは言えません。たとえ神を信じていてもそのことは言えます。モーセの十戒の五つ目の戒めは「人を殺してはならない」ですが、同時に神はモーセにカナンの地の民を滅ぼすよう、特にアマレク人に対しては殲滅するように命じています(出エジプト記一七章、申命記七章参照)。その相反する戒めをわたしたちはどのように理解し実践したらよいのでしょうか。今日においてもイスラエルはパレスチナの人たちと戦っています。しかし、それに反対して平和的な解決を求め、共存の道を探る人たちもいるのです。そのどちらも自分たちが正しいと信じているのです。ユダヤ人指導者たちは主イエスを十字架につけました。主イエスは御自身を神としましたが、彼らにとってそれは神への冒涜であって、死罪に当たりました。弟子たちも主イエスを一人残して逃げました。剣で戦うか、逃げるかのどちらかしか選択の余地はなかったのです。弟子たちは主イエスをメシアと告白しましたが、神御自身であるとは知りませんでした。わたしたちもまた家畜小屋で生まれ、十字架で死んだお方が神であるとは信じられません。神は主イエスを死から復活させることによって神の子であることを示されましたが、全ての人にそのことが啓示された訳ではありません。
主イエスのこの世での生涯を知ってわたしたちもまた低くされます。それはアッシリア、バビロニア、ローマに敗れたイスラエルの捕囚の民と同じにされることであって、神の御前に膝まづき、この世において寄留の民とされることです。
パウロもかつてキリスト者を迫害していました。ステファノが石打たれる時、そこで人々の上着の番をしたのです。しかし、復活の主イエスに出会った時彼は変えられ、迫害される側に立たされました。主イエスは生きておられると宣べ伝えることによって、人々から鞭や石で打たれ、投獄されました。しかしそれによって福音が前進するのを見たのです。この苦難と喜び、それが主にある戦いでした。目に見える敵との戦いではありませんでした。そしてそれはわたしたちの戦いでもあります。イエス・キリストはわたしたちの主であって、その主のために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。