2012年4月15日日曜日

マルコ16章1-8節「あの方はここにはおられない」

第144号

《イースター礼拝》

 主イエスが十字架に付けられたのは朝九時で、息を引き取られたのは午後三時でした。安息日が終わると、マグダラのマリアら三人の婦人たちは香油を用意しました。そして週の初めの日の朝早く、彼女たちは主イエスの遺体に香油を塗るため墓に向かいましたが、墓は大きな石で塞がれ、脇には番兵もいるはずでした。
 ところが彼らが墓に着くと石は取り除かれていました。そして墓の中には一人の若者が座っていました。聖書はその若者を天的な存在として描いています。天使は驚く婦人たちに声をかけられ、主イエスは復活してここにはおられないこと、そしてガリラヤで会えると弟子たちとペトロに告げなさいと言いました。婦人たちはこれらの出来事に震え上がり、正気を失いました。
 弟子たちにとって、主イエスが十字架に付けられたことは大きな挫折でした。「あの方こそ、イスラエルを解放してくださる」と信じていたからです(ルカ二四章二一節)。メシアである主イエスがローマ帝国からイスラエルを救い、自分たちも主イエスと共にその王国を支配するはずでした。そのためには自分の命をも捨てる覚悟でした。しかしエルサレムに入城された主イエスは神の国のために戦おうとはされず、無抵抗のまま十字架に付けられてしまいました。そして墓に入れられ三日が経ちました。それは弟子たちの望みにピリオドが打たれ、完全に過去のものとなったということでした。

主イエスは弟子たちにフィリポ・カイザリア以来、御自身の苦難と十字架、そして三日目の復活を繰り返し教えて来ました(マタイ一六章二一節)。それにも拘らず、弟子たちの内、誰一人それを心に留めてはいませんでした。彼らにとってメシアが死ぬなどということは考えられなかったのです。
 ゲッセマネでは弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げました。イスラエルを神の国にしようとする彼らにとって、選択肢は戦うか逃げるかのどちらかでした。それでもペトロは捕らえられた主イエスの後について大祭司の庭に入り、裁判の成り行きを見守ったのです。ところが、あなたもこの人の仲間だったと言われ、わたしはこの人を知らないと三度も否んでしまいました。主イエスはペトロの方を振り向いて見つめられました。ペトロは外に出て激しく泣きました。
 ペトロは主イエスに従う前、ガリラヤの漁師でした。主イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました(マタイ四章一九節)。その言葉を聞いて仕事を捨てて主イエスに従いました。しかし、その結果はペトロの裏切りで終わりとなりました。主イエスは死に、悔い改める機会は失われたのです。
 主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われました(ルカ二三章三四節)。「彼ら」とは、自分を十字架に付けた者であって、弟子たちとペトロ、そしてわたしたちも全て含まれるのです。わたしたちは赦されるために、死んで主イエスの前で裁かれる日を待たなければならないはずでした。それまで自分の冒した罪を悔いながら生きるのです。しかし、空になった墓は、そうではないことを教えました。天使は弟子たちとペトロを復活した主イエスの下に再び招かれたからです。

  主イエスが復活されたのは、十字架の上で「彼らの罪をお赦しください」と叫ばれたその祈りが確かに天の父によって聞き届けられ、主イエス御自身がわたしたちの内にあって共に生きるためでした。復活された主イエスはペトロの裏切りを少しも咎められませんでした。御自分を愛するかと三度、尋ねられただけでした。同じことは、他の弟子たち、そしてわたしたちにも言えるのです。主イエスはわたしたちと共に罪の苦しみ、悲しみを分かち合う存在となられたのです。もはや、わたしたちの罪の責任を問うことはされないのです。わたしたちは自由な身となったのです。
 空の墓はわたしたち自身が罪から救われるために努力する必要はないこと、そしてそれに代わって神がわたしたちの救いのために歴史に介入されたことを教えます。空の墓は無を意味し、神はそこからわたしたちと共に生きる主イエスを復活されました。創世記に「初めに、神は天地を創造された」とありますが(一章一節)、ここで言う「創造」は無からの創造で、主イエスの復活があって初めてわたしたちはそのことが信じられるのです。
 弟子たちの考えた神の国はこの世のことでした。しかし、主イエスの神の国は永遠の命のことです。その御国に入るには、わたしたちが主イエスに香油を塗るといった敬虔な行いとは関係なく、神がわたしたちのためになされたことによります。それは神からの一方的な恵みとして与えられるのです。