2012年6月17日日曜日

使徒2章14-21節「終わりの時に」

第146号

 ペトロは他の十一人の使徒たちと共に立ち上がり、集まって来た人たちを前に話し始めました。ペトロの五旬節説教です。「ユダヤの方々…今は朝の九時ですから、この人たちは、あなた方が考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」。人々は異言を語っている使徒たちを見て酒に酔っていると思ったのです。敬虔なユダヤ人は朝の祈りの前には何も食べません。ペトロはこのように皆を驚かしているのは霊によるもので、このことは神が預言者ヨエルを通して言われていたことだと言いました(ヨエル書三章一節~五節参照)。神は「終わりの時」に人々に御自身の霊を注がれるのです。すると彼らは予言をし、幻と夢を見ます。それから「主の日」が来るのです。それは主イエスの再臨の日で、救いの日であり裁きの日でもあります。太陽は暗く、月は血のように赤くなり、地には徴が現われます。その時、「主の名を呼び求める者は皆、救われ」ます。しかし、呼び求めない者は皆、滅ぼされるのです。

  五旬祭に約束の聖霊が使徒たちに注がれ、この世は「終わりの時」に突入しました。神は聖霊による「新しい民」を起こされたのです(Ⅱコリント五章一七節)。ユダヤ人を恐れていた使徒たちは変えられました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」のです(使徒一章八節)。今、わたしたちはこの「終わりの時」を生きているのですが、この「終わりの時」は主イエスの再臨の時まで続きます。この「主の日」こそが、全ての出来事の目標であり目的なのです。その時に生きている者も、死んだ者も主イエスの名を呼ぶことが出来るかどうかが問われます。それは主イエスについて知っているというのではなく、主イエスを知っているかどうかであって、主イエスの霊を受けているどうかです。主イエスの再臨の日にわたしたちの「滅び」と「救い」が決まるのです。
 使徒たちは主イエスと出会い、この方によってイスラエルは神の国になると信じました。しかし、主イエスは十字架に付けられてしまいました。三日目に主イエスが墓より甦ると使徒たちは再び神の国の理想を取り戻しました。その彼らに主イエスは「神の国」がどのようなものであるかを教えられ、四十日後に天に昇られました。その時、天使は使徒たちに「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と約束されました。その時、この世に主イエスが王として支配される神の国が生まれるのです。但し、その時については「あなた方の知るところではない」と言われました。しかし、あなたがたに「まもなく」聖霊が与えられると言われ、それまでエルサレムを離れてはならないと命じられました。

  使徒たちが主イエスの十字架の意味を知ったのは聖霊を受けてからでした。主イエスを十字架に付けたのは、ユダヤ人や指導者たち、またローマ総督、ポンティオ・ピラトだけでなく、「わたしはこの人を知らない」と言ったペトロや使徒たちでもあったのです。主イエスが神御自身であるなど誰が知り得たのでしょうか。それはわたしたちも同じです。主イエスはそのような人の罪を十字架の上で赦されたのです。そして、それを信じる者に神は聖霊を授け、神の民とされるのです。もはやアブラハムの子孫が神の民ではなく、主イエスを信じる信仰によって生まれた者がイスラエルの民となるのです。
 わたしたちは自分の力で福音を宣べ伝えることはできません。宣教の業は聖霊である神御自身がなされるのです。世界に福音が宣べ伝えられ、それから主イエスの再臨があり、この世に神の国が生まれるのです。すべては神御自身の計画と働きによるものであって、人類の進化や社会の改革、政治的活動によってもたらされるものではありません。そうではなく、逆に「主の日」を前に人々の愛は冷え、多くの場所で地震があり、戦争が起こるのです。それらは主イエスが再臨され神の国が生まれるための「生みの苦しみ」の始まりです。
 正しいお方は神の子である主イエスだけなのです。わたしたちに出来ることはそのお方を信じることだけですが、それすらも神の恵みによるのです。それが「救い」で全て「キリストのみ、恩恵のみ、信仰のみなのです。
 聖書はキリストである救い主を証します。旧約の主はキュリオスで、新約のキリストと同じです。それを知ることが聖書を読み解く鍵で、旧約の中にキリストが隠されているのです。聖書はわたしたちに「すでに起きたこと」、「今起きていること」、「これから起こること」を告げることによって今が、「終わりの時」であることを教えます。